初恋、のちパパになる―憧れのあなたは母になっていた―
6. 信頼、のち選択

 若葉に蒼生を預け、二人は玲の部屋へ向かった。

 マンションの一室。
 一人暮らしには少し広めの、2LDK。

 就職を機に一人暮らしを始めた玲の部屋には、とにかく本が多かった。
 漫画、小説、法律関係の専門書、雑誌、実用書。
 棚には楽譜まで並んでいる。
「ごめん、ものが多くて」
「玲君、本好きなんだ」
「うん」
「楽譜もあるね」
 本棚にはクラシックの他、手書きの譜面が何冊かある。
 そこには、『Over the EDEN』と記載されている。
 かつて、正体不明の人気バンド・EDENのメンバーとして活動していた玲の父。十年ほど前に一度復活し、その中には次世代メンバーとして、玲も含まれていた。
「ああ。うちは父方のおばあちゃんから音楽系の血が入ってるからね。父さんはエレキハープを弾きながら歌ってて。僕は本格的にやってたわけじゃないけど、ピアノを叔母から教わって弾いてたな」
「そうなんだ。エレキハープ?」
「うん、僕も初めて見たときはすごく見とれたよ。全体がクリスタル製の、照明が当たると虹みたいに色彩を帯びて――さらに透明感のある音と、少しグルーヴ感のある音も出せたりして、めっちゃステージ映えするんだ」
「あ、だから玲君のご実家に……ハープがおいてあったんだ」
「あれはおばあちゃんのだけどね。もう古いから、インテリア化してる」 
 自分の家族について、遙花とこんなに話したのは初めてだった。こんなにも話し込むつもりはなかったのに、何故か自然と湧き上がるように話してしまう玲。
「僕の父さん、日本とフランスのハーフだって言ってたっけ?」
「うん。だから玲君はクォーターになるのかな」
「そうなるね。父方のおばあちゃん、フランスで有名な音楽一家だったみたいでさ」
「そんな有名な人が、どうして日本に?」
「何でも、おじいちゃんが若い頃に失恋して、傷心旅行でパリに行ったんだって」
「うん」
「それで、たまたま入ったレストランでハープを弾いてたおばあちゃんに一目惚れして、その場でプロポーズ」
「……は?」
「そのまま日本に連れてきたらしい」
「何それ」
「僕もそう思う」
 玲が笑う。

「おじいちゃん、なぜかフランス語がめちゃくちゃ得意だったらしくて。おばあちゃんも、親に決められた結婚相手がいたらしいんだけど、窮屈な家庭が嫌で抜け出したかったみたい。即OKして、ほとんど駆け落ち状態」
「すご……」
「それがフランスでニュースになったとか。向こうの親には相当嫌われたらしいけどね」
「うわあ……」
「最終的には和解したみたい。二人とも、もういないけどね」
 遙花が少し考える。

「何か、血筋を感じた」
「え? どの辺が?」
「好きになったら一直線なところ」
「ああ……」
 玲は少し笑った。

「そうかも。それぞれ形は違うけど」
「うん」
「あ、僕はこれでもかなり奥手な方だからね」
「うん。見れば分かる」
「う……何か悔しいな」
「事実じゃん」
 遙花が楽しそうに笑う。

「……ねえ、遙花さん」
「何?」

「母さん、一晩預かるからゆっくりしてきていいって」
「でも、ご迷惑じゃ……」
「今日は姉ちゃんとその婚約者もいるから、人手には困らないって言ってる」
「本当にいいの?」
「うん」
 少し迷ってから、遙花が言った。
「じゃあ……泊まっても?」
 一瞬、玲の動きが止まった。

「……その方が、嬉しい」
「分かった。でも私、着替えがないから一回取りに行っていい?」
「いいけど、部屋着なら僕のでよければ」
「私、一応女だから」
「あ、うん」
「ちょっと取ってくる」
「送ろうか?」
「大丈夫。すぐ近くだから」
 遙花が部屋を出る。
 ドアが閉まった瞬間、部屋に静けさが戻った。窓の外を走る車の音が遠くに流れ、冷蔵庫の低い駆動音だけが、妙に大きく聞こえる。
「……」
 玲はしばらくその場に立ち尽くした。

「泊まるって……」
 今さら実感してきた。
 いつもなら本の紙の匂いと、昼間の光で落ち着いている部屋が、今夜は少し違って見える。間接照明をつけると、淡い橙色の光が壁と本棚を柔らかく照らし、二人のためだけに切り取られたような空間になった。

「いや。落ち着け」
 念のために、と準備だけしておく。
 何も起こらないかもしれない。
 それでも。
「……念のため」
 自分に言い訳するように呟いて、そっと引き出しを閉じる。
「あ。そうだ」
 浴室を確認し、浴槽に湯を張る。
「……これも念のため」

 湯の落ちる音が、静かな部屋の奥からかすかに響いた。その音を聞いていると、遙花が戻ってくるまでの時間が、いつもより長く感じられる。
 そのとき。
 ガチャッ。

「おまたせ」
「早っ」
「え?」
「あ、いや。お帰り」

 危なかった。
 玲の心臓が急に騒がしくなる。
「あれ? お風呂」
「ああ。今お湯張ってるから。よかったら先に入って」
「玲君からじゃなくて?」
「いやいや。レディーファースト」
「何なら、一緒に入る?」
「へ!?」
 玲の顔が一気に赤くなる。

「いや、それは……!」
「冗談よ」
「何だぁ……びっくりした」
「入りたい?」
「いや、ダメ。それは」
「私は構わないけど」
「僕がダメ。多分死ぬ」
「大袈裟」
「いや、大問題」
「何で?」
「いいから、先入ってきて!」
「はいはい」
 遙花は楽しそうに浴室へ向かう。

「覗かないでね」
「覗かないよ!」
「ほんとに?」
「さっき一緒に入るとか言ってた人に言われたくない」
「じゃあ今から入る?」
「あとで入る!」
「分かった」

 浴室からシャワーの音が聞こえる。
 水が床を打つ音、湯気の向こうで動く気配。薄い壁一枚を隔てているだけなのに、遙花との距離が急に近くなったように感じられた。部屋には石鹸の淡い香りが漂い、玲はそれだけで落ち着かなくなる。

「……まずいな」
 ただの水音なのに、なぜか意識してしまう。
 玲はソファに座り込み、頭を抱えた。
「今からこれじゃダメだろ……」

 そうこうしているうちに、遙花が浴室から出てきた。
「玲君」
「ん?」
 振り向いた玲は、思わず視線を逸らした。
「ごめん。着替え一つ忘れた」
「ちょ、あんまり無防備にうろつかないでよ」
「はいはーい」
 からかうような声。
 玲はますます困る。
 姉の瑠花ですら、家の中をそんな格好で歩き回ることはなかった。
 こういう状況への免疫が、圧倒的に足りない。

「お風呂ありがとう」
「あ、うん。じゃあ今度は僕入ってくる」
 逃げるように浴室へ向かった。
 シャワーを浴びながら、嫌でもこのあとのことを考えてしまう。
「……ダメだ」
 深呼吸。
「落ち着け、僕」
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