世界で一番切ない恋
ーー凍る月と一番星ーー
「ちょっと、放してってば、星野くん!」
人気のない放課後の渡り廊下まで連れてこられて、私はようやく彼の親指を振り払った。手首に残る彼の体温が熱くて、なんだか無性にイライラする。
「なんなの、急に。詩織がびっくりしてたじゃん」
「お前の方こそ、なんなんだよ。昨日あんなに屋上で死にそうな顔して泣いてたから、気になって損したわ。……学校じゃ、ずいぶん威勢がいいじゃん」
星野くんは廊下の窓に背中を預け、ポケットに手を突っ込みながら、呆れたように私を見下ろした。
昨夜の涙を見られた気まずさから、私はわざとそっぽを向いて、冷たい言葉を突きつける。
「星野くんに心配してもらう筋合いなんてない。私はただ、ちょっと疲れてただけ。……もう教室戻るから」
「待てよ、白砂」
背を向けようとした私の前に、星野くんが回り込む。
私は彼を避けるように、一歩横へ足を踏み出した。
ガシャ、と鈍い音が響いて、視界の端で何かが揺れた。
「あ――」と短い声を上げた星野くんの手が、私の肩を掴んで、強引に自分のほうへと引き寄せる。
直後、私のすぐ耳元を、何かが風を切って通り過ぎ、床に激しい音を立てて転がった。
用務員さんが廊下の隅に立てかけておいた、掃除用の太いアルミ製のモップだった。私が避けた拍子に、肩が当たって倒れてしまったのだ。
「……っ、たく。危ねぇな、お前。なんで避けないんだよ。今、完全に目の前に倒れてきてただろ」
星野くんの、少し怒ったような、でも本気で焦ったような声が頭の上から降ってくる。
私の肩を掴む彼の両手が、微かに震えていた。
「……避けたよ。避けたから、当たっちゃったんじゃん」
私は必死に声を震わせないようにして、言い訳をした。
でも、違った。本当は、見えていなかったのだ。
夕暮れで少し薄暗くなった廊下。黒板の文字が掠れたように、私の右側の視界は、すでにモップの輪郭を捉えられないほど『暗闇』に侵食されていた。だから、倒れてくるまで気づけなかった。
「違う」
星野くんの声が、急に低くなった。
彼の手が、私の肩から、私の顔へと伸びてくる。
逃げようとしたけれど、彼の長い指先が私の顎をそっと固定して、無理やり彼のほうを向かせた。
夕日のオレンジ色の光のなかで、星野くんの綺麗な瞳が、私の目をじっと覗き込む。
「お前、さっきから俺と一瞬も目が合ってない。……俺の顔じゃなくて、俺の耳のあたりを見てる」
「――っ」
心臓が、ドクドクと痛いくらいに暴れ出す。
バレる。隠さなきゃいけないのに。
「白砂…大丈夫か?…」
星野くんの真っ直ぐな瞳が、私の濁り始めた瞳を捉えて離さない。
いつも意地悪そうに笑う彼の声が、今は聞いたこともないくらいに切なく、震えていた。
その瞬間、私の頭の中で、お医者さんのあの冷たい声が、お母さんの泣き叫ぶ声が、一気に蘇ってあふれ出した。
親友の詩織にも、誰にも言えなかった私の暗闇が、大嫌いだったはずのこの男によって、今、完全に暴かれてしまった。
心拍数があがる。
その瞬間、私の頭の中で、お医者さんのあの冷たい声が、お母さんの泣き叫ぶ声が、
一気に蘇ってあふれ出した。
「――っ、放してよ! 関係ないでしょ、星野くんには……っ!」
私は狂ったように首を振って、彼の親指を全力で跳ね除けた。
喉の奥から、ずっと堪えていたドロドロとした感情が、涙と一緒に一気に噴き出す。
「見えないよ…!あと十一ヶ月で、私の世界は全部真っ暗になるの!
治療法もないし、治らない。
私、まだ十七歳なのに。普通の恋も、
普通の青春も、
普通の後悔も、
喧嘩も、喜びも、
何一つ経験してないのに!…
私、悪いことした… ?私みたいなのは不良品だから。
君みたいな善良な人から見ると私はただのー…」
「やめろ。」
誰もいない廊下に、私の醜い泣き叫ぶ声と星野くんの冷静な声が響き渡る。
昨日からずっと、誰にも言えずに一人で抱え込んできた絶望を、大嫌いだったはずのこの男に、全部、怒りと悲しみをぶつけてしまった。
ボロボロと涙が止まらなくて、視界がぐしゃぐしゃに滲む。
自分が惨めで、
これ以上彼の眩しい姿を見ていられなくて、
私はその場にしゃがみ込んで顔を覆った。
冷たい床の上で、私は声もなく、ただ子供のように肩を震わせて泣き続けた。
どうせ、彼も困った顔をして立ち尽くすだけだ。
私のこの真っ暗な未来なんて、光の中にいる彼には重すぎる。そう思って、心を完全に閉ざそうとした、その時。
カサリ、と制服が擦れる音がして、私の目の前に誰かがしゃがみ込む気配がした。
直後、昨日の屋上と同じ、あの驚くほど温かくて大きな手のひらが、私の頭を包み込むようにそっと触れた。
髪の毛を優しく撫でる、迷いのない手のひら。
「……不良品なんて言うなよ」
頭の上から、
静かで、
温かで
でも今までで一番優しい声が降ってきた。
「……白砂」
星野くんは少しだけ困ったように、でも私の震える肩をそっと引き寄せるようにして、ぽつりと言った。
「……水月」
「――っ」
初めて呼ばれた、私の名前。
詩織が呼ぶ「みーちゃん」とも違う。お母さんが叫ぶ「水月」とも違う。
星野くんの低い声で、
とても大切そうに紡がれた私の名前に、
私の心臓が、大きく、大きく激しく跳ね上がった。
「十一ヶ月でも、なんだっていい。お前がどんなに暗闇を怖がってたって。
……俺がお前のこと、絶対に見つけるから。お前は不良品なんかじゃないよ、水月」
ぶ彼の声は――
「…知っていると思うけど…私の名前ね、水月っていうんだ」
しゃがみ込んだまま、膝に顔を埋めて、私はぽつりぽつりと、自分の名前に隠していた絶望を打ち明けた。
「……良い名前じゃん」
星野くんが、静かに私の言葉を待つように言う。
「よくないよ。だって月ってさ、どんなに綺麗に満ちても、いつかは絶対に欠けていく」
「……」
「私の目と同じ。少しずつ欠けていって、最後には何もなくなっちゃうの。名前の通りなんだよ、私は。だから、もう暗闇になるのを待つしかないの……」
涙が床にポタポタと落ちて、小さな水たまりを作っていく。
『水面に映る月』――触れたら一瞬で消えてしまう、偽物の月。
勝手に欠けて、最後には完全な闇(新月)に呑まれるだけの、ただの影。
それが、私が自分で思い込んでいた、私の本当の正体だった。
だけど、星野くんは私の隣にゆっくりと腰を下ろすと、真っ直ぐな瞳で私の目を見つめて、静かに首を振った。
「月は欠けるけど、また必ず満ちる。それに……知ってる? 月ってさ、どんな時でも一番くっきりと、綺麗に輝くんだよ」
「え……?」
「お前の世界がこれからどんなに真っ暗になってもさ。お前は、そこで一番綺麗に輝く月なんだよ。だから、不良品なんかじゃない。
……お前の世界がもし真っ暗になっても、俺が絶対にお前の道標になるから。だから、暗闇を怖がるな」
夕暮れの誰もいない廊下で、私の目を真っ直ぐに見つめる彼の言葉は――
私の冷たく凍りついていた世界を、一瞬で溶かしてしまうほどに、温かくて、眩しかった。
私は大嫌いだった彼のことを
ちょっとだけ、本当にほんのちょっとだけ、この『一番星』の光を信じてみたいと、心の奥で願ってしまった自分が、なんだか無性に悔しかった。