世界で一番切ない恋

ーーストロベリームーンと輝く君ーー


 季節は巡り、6月になった。
梅雨のジメジメとした空気のなか、私の世界は、少しずつだけど確実にその輪郭を失い続けている。
前までは見えていた黒板の文字が、今はもう、一番後ろの席からだとほとんど白いモヤにしか見えない。
教科書を読むのも時間がかかるようになってしまった。
けれど、私の心は、あの病院の日のように凍りついてはいなかった。
「おい、白砂。次、英語だぞ。辞書忘れてんじゃん」
休み時間、廊下を通りかかった星野くんが、私の机の上にぽんと自分の辞書を置いた。
私が「見えづらくて探すのに時間がかかってただけ」と言い返す前に、彼は「ほら、さっさと準備しろ」と、私のイライラをいなすように小さく笑って行ってしまう。
あの夕暮れの渡り廊下で、病気のことを星野くんにだけ知られてから、何かが変わった。
学校では相変わらず、彼はモテる有名人で、私は地味な転校生。私は相変わらず「星野くん」と呼んでツンツンした態度を崩さない。
だけど彼は、周りにバレないような絶妙な自然さで、私の『見えない部分』をいつもそっとフォローしてくれていた。
「みーちゃん! 今日の夜さ、一ノ瀬くんたちとみんなで一緒に帰らない?」
移動教室への廊下で、詩織が私の腕にぎゅっと抱きつきながら、小声で弾んだ声を上げた。
一ノ瀬くん――一ノ瀬陸くん。詩織が来年のバレンタインに告白すると決めている、星野くんの親友のサッカー部の子だ。
「えっ、一ノ瀬くんと? なんで急に……」
「さっきね、星野くんから誘われたの! 『今日、6月の満月でストロベリームーンだから、みんなで一緒に見ながら帰ろうぜ』って。一ノ瀬くんも一緒に行くんだって! どうしよう、私緊張して心臓止まりそう!」
詩織の言葉に、私は心の中でハッとした。
(星野くんが……誘った?)
あの星オタクの彼が、わざわざそんな青春みたいな誘いをするなんて珍しい。それに、詩織の恋を応援したい私のために、わざと一ノ瀬くんを呼んで機会を作ってくれたのだろうか。ここは詩織に絶好のチャンスだ。
「……うん、いいよ。一緒に行こ」
私は詩織の嬉しそうな笑顔を見つめながら、優しく微笑んだ。
私の目はあと十ヶ月ほどで何も見えなくなる。来年のバレンタインの詩織の姿は見られないけれど、今、こうして隣で彼女の恋を応援できる時間を、星野くんがくれたんだと思うと、胸の奥がじんわりと熱くなった。
放課後。夕暮れの校門の前で、私と詩織、そして星野くんと一ノ瀬陸くんの4人が集まった。
「よお、白砂。遅い」
「星野くんたちが早すぎるだけでしょ」
私はわざとツンとした声を出しながらも、彼の隣にいる一ノ瀬陸くんの爽やかな笑顔に、詩織が完全にガチガチになっているのを見て、心の中で小さく笑った。
「白砂さん、よろしくね。星野からいつも話は聞いてるよ。なんか、いっつも突っかかってくる面白い子がいるって」
一ノ瀬くんが屈託なく笑いながらそう言って、私は星野くんをジロリと睨みつけた。星野くんは「あ、余計なこと言うな陸」と、バツが悪そうに頭を掻いている。
4人で並んで、少しずつ暗くなっていく夜道を歩き始める。
詩織が一ノ瀬くんの隣で一生懸命に楽しそうに喋っている姿を、私は一歩後ろから静かに見守っていた。私の右側の視界が少し狭くなっていることに、星野くんが気づいて、さりげなく私の右側(外側)を歩いて歩調を合わせてくれているのが伝わってきて、胸がトクンと跳ねる。
「わあ…綺麗」
詩織がうっとりした目で夜空を指差した。
初夏の澄んだ夜空の低い位置に、ぽつりと、驚くほど大きな満月が昇り始めていた。
それは、普通の黄色い月じゃない。夕日の名残を閉じ込めたような、どこか淡くて、ほんのりと赤みがかったピンク色の、不思議な月だった。
「すげえ……本当にちょっとピンク色だ」
一ノ瀬くんが感嘆の声を上げる。詩織はその横顔を、月よりも眩しそうな目で見つめていた。
「ストロベリームーン」
私の隣を歩く星野くんが、静かにその名前を口にした。
「6月の満月は、一年で一番低いところを通るから、大気の影響で赤っぽく見えるんだ。……この月を一緒に見た人間はね、好きな人と結ばれるっていうジンクスがあるんだよ」
「えっ! 本当!?」
詩織が顔を真っ赤にして一ノ瀬くんをチラリと見つめる。一ノ瀬くんも「へえ、星野のくせにロマンチックなこと知ってんじゃん」と少し照れくさそうに笑った。
(好きな人と、結ばれる――)
そんな甘いジンクス、私にはきっと関係がない。私には「陰」がお似合いで、未来の暗闇が決まっている不良品なのだから。
そう思って、私はそっと視線を伏せようとした。
「……なぁ、水月」
不意に、周囲の賑やかな声にかき消されそうなほどの小さな声で、星野くんが私の名前を囁いた。
他の二人には聞こえない、私だけに向けられた、あの渡り廊下と同じ優しい声。
顔を上げると、星野くんは一ノ瀬くんたちに気づかれないように、私のすぐ隣で、私だけを真っ直ぐに見つめていた。その瞳の奥には、夜空に浮かぶあのストロベリームーンが綺麗に映り込んでいる。
「…この月が水月とみれて良かった。」
この気持ちは…きっと
考えるな。
考えるな、自分。
未来がもっと怖くなるから。
だけど、ストロベリームーンの淡い光に照らされた彼の横顔は――
大嫌いだったはずの『星野くん』の姿は、どうしようもないくらい
優しくて、
温かくて、
眩しくて。
私は必死に潤む目をそらすのが、精一杯だったー。
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