世界で一番切ない恋

ーー半年後の星ーー

教室ではいつも通り、詩織が「みーちゃん、おはよう!」と明るく手を振ってくれて、私もなんとかいつもの笑顔を作って席についた。
休み時間、廊下を通りかかった星野くんと一瞬だけ目が合ったけれど、私は心臓が潰されそうなほどの痛みに襲われて、すぐにフイッと目をそらしてしまった。彼は少しだけ不思議そうな顔をしていたけれど、周りの男子に声をかけられて、そのまま行ってしまった。
気づかれないように、カバンの奥の、制服のポケットの中に、三つ折りにしたあの白い紙があることを指先で確かめる。触れるだけで指先から凍りついてしまいそうなほど、その紙は重かった。
授業の内容なんて、何一つ頭に入らなかった。
ただ早く放課後になってほしいような、でも、放課後が来るのがおそろしいような、ぐしゃぐしゃな気持ちのまま、終わりのチャイムを聴いた。
詩織に「今日、ちょっと用事があるから先帰ってて」と嘘をつき、一人で静まり返った校舎を歩く。
足が向かったのは、やっぱり、あの夕暮れの階段の踊り場だった。
階段を上っていくと、そこにはすでに、大きな望遠鏡のバッグを足元に置いて、ぼんやりと窓の外の夕日を眺めている星野くんの背中があった。学校中のみんなが流星群みたいにチヤホヤする、大嫌いだったはずの、私の特別な星。
「……遅いじゃん、白砂」
私の足音に気づいた星野くんが、いつもの少し意地悪そうな笑顔で振り返った。
その顔を見た瞬間、喉の奥がグッと熱くなって、視界が急激に歪んだ。あんな診断書が嘘みたいに、彼はいつも通り、真っ直ぐで、眩しかった。
「……これ、昨日の忘れ物」
私はポケットから、三つ折りにしたままのあの白い紙を取り出して、彼に差し出した。
声が震えてしまわないように、精一杯、いつもの素っ気ない声を装って。
「あ、あった! 探したんだよ、どこ探してもないから焦ったわ。……ありがと、白砂」
星野くんはホッとしたように笑って、私の手からその紙を受け取ろうとした。
だけど、私がその紙を掴む指先に、ぎゅっと力が入ってしまって、紙は二人の間でぴたりと止まった。
「……白砂?」
星野くんが不思議そうに私の顔を覗き込む。
必死に、必死に堪えていたのに、彼のその優しい声が、私の張り詰めていた心の糸を、ぷつりと切ってしまった。
目から、大粒の涙がポロポロと溢れて、床のコンクリートに小さなシミを作っていく。
「……星野くんの、バカ」
「え……? な、何泣いてんだよ。俺、また何か怒らせるようなこと言ったっけ?」
突然泣き出した私に、星野くんは本気で狼狽えて、差し出された紙を握ったまま、慌てて顔を近づけてきた。
私は首を激しく振って、溢れてくる涙を袖で拭うこともできずに、途切れ途切れの声で泣きじゃくった。
「……見ちゃった、の。見たくなかったのに、ポケットから落ちてたから……見ちゃった」
「――っ」
星野くんの身体が、一瞬にして硬直したのが分かった。
いつも余裕そうに笑っている彼の瞳が、見たこともないくらいに丸くなり、その奥に激しい動揺が走る。彼の手の中にある『診断書』という文字が、夕日の赤い光に染まっていく。
「……あと半年って、なに……? 自分の命がもうすぐなくなっちゃうのに、なんで……なんで私なんかの目になるなんて、そんな優しい嘘つくのよ……っ」
怒りたいわけじゃない。責めたいわけじゃない。
ただ、悲しくて、悔しくて、彼の抱える暗闇の深さが愛おしくて、涙が枯れるくらいに泣きじゃくることしかできなかった。
「私の目は、あと十一ヶ月で真っ暗になるけど……でも、私は、生きてるよ……っ?
暗闇のなかでも、私はちゃんと息をして、生きてられるんだよ……っ!?
なのに、星野くんはいなくなっちゃうじゃん……!
私より先に、この世界から消えちゃうじゃん……っ」
過呼吸になりそうなほど胸を上下させて、私はボロボロと涙を流した。
「そんなの、ずるいよ……。お前の道標になるなんて、来年もストロベリームーンを一緒に見てやるなんて、できもしない約束して、私を一人ぼっちにするの?私をおいて、勝手に遠い星のところに行っちゃうんでしょ… 行かないでよ… 置いていかないでよー」
床を見つめたまま、声もなく肩を震わせて泣きじゃくる私。
星野くんは、何も言わずに立ち尽くしていた。
いつも私を救ってくれる真っ直ぐな言葉も、今は出てこないみたいに、
ただひどく苦しそうな、
でも切ないくらい優しい顔をして。
私を見つめている。
「私なんかにその優しさを使うくらいなら……っ。お願いだから、自分のために、その大切な時間を使ってよ……っ」
ボロボロに泣きじゃくる私を、彼は、壊れ物を扱うように抱きしめた。
「俺の時間があと半年だって、なんだっていい。最期のその瞬間まで、俺にお前の前で光らせてよ」
 私は彼の胸に顔を埋めたまま、ただ子供のように、もう一度激しく泣きじゃくることしかできなかった。
星野くんは何も言わず、私が泣き止むまで、ずっと壊れ物を扱うように優しく抱きしめ続けてくれた。
トクトクと響く彼の規則正しい心音と、制服越しに伝わる温かい体温。これが、あと半年で消えてしまうなんて、やっぱりどうしても信じられない。
「……少し、落ち着いた?」
しばらくして、私の涙が少し引いたのを見計らうように、星野くんがそっと腕の力を緩めた。
でも、完全に離れてしまうのが怖くて、私が彼のシャツの裾をぎゅっと掴んだまま離さずにいると、彼はふっと困ったように、でも愛おしそうに笑った。
星野くんはそのまま階段に腰を下ろし、私の隣の段に視線を送る。私は鼻をすすりながら、彼のすぐ隣に寄り添うようにして座った。
夕日はもう沈みかけていて、踊り場には薄紫色の夜の影が忍び寄っている。
「……白砂の言う通りだよ。俺、あと半年の命なんだって」
星野くんは、私の手から受け取ったあの三つ折りの紙を愛おしそうに見つめながら、ぽつりと言い始めた。
「心不全症。……ま、心臓がだんだん動かなくなっていく病気」
いつものぶっきらぼうな口調のまま、彼はまるで明日の天気予報でも話すみたいに、淡々と自分の病気
ことを語る。それが余計に、彼のこれまでの孤独を物語っているようで、私の胸がまたギチギチと痛んだ。
「心臓の筋肉がだんだん動かなくなっていく病気でさ。今の医療じゃ、もう進行を止める術がないんだって。……不治の病ってやつ。」
蓮が、優しくて、
温かく、
微笑んだ。
蓮、蓮、蓮ー。
私を、私を置いていかないでよ。
ねえ。蓮…私、蓮がいなくなったら…
どうやって息をすればいいの?
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