世界で一番切ない恋
コールドムーン
あの日から、彼は学校に来なくなった。
夏祭りに行かせたことを未だ後悔していた。
『心不全症』。彼の命の砂時計は、ついに最後の数粒になろうとしていた。
「……ねえ、星野くん。今日さ、今年最後の満月なんだって」
面会時間が終わる間際、静まり返った白い病室で、私はベッドの横のパイプ椅子に座り、彼の冷たくなりかけた左手をぎゅっと握りしめていた。
ベッドの上の星野くんは、いろんな管に繋がれて、呼吸をするだけでも苦しそうだった。
部屋の片隅では、彼の弱り切った心臓の鼓動を伝える機械が、
「ピッ……ピッ……ピッ……」
と、痛々しいほどに遅いテンポで、無機質な電子音を刻み続けている。
いつもの意地悪そうな笑顔を作る余裕なんてないはずなのに、彼は私の声を聞くと、ゆっくりと微かに瞳を開けた。
ぼやける私の視線のなかで、彼の切れ上がった瞳だけが、やっぱり昨日の夜の一番星みたいに綺麗に光っている。
「……コールド、ムーン……だろ」
酸素マスクの奥から、掠れた、でも驚くほど優しい彼の声が響いた。
「天体観測オタクの……俺が、教えたもんな。冬の月は、空気が冷たくて乾燥してるから、遮るものが何もない。……だから、暗闇が深ければ深いほど、一番、くっきりと綺麗に輝くんだ」
星野くんはそう言って、私と繋いでいる手に、微かに力を込めた。
彼の手のひらを通じて、弱々しく、でも確かに刻まれる心臓の鼓動が、私の手のひらに直接響いてくる。
「水月。お前の世界が、これからもっと悪くなって……来年の春に、完全に真っ暗になってもさ。……お前は、そこで一番綺麗に輝く月んだよ。だから、暗闇を怖がるな」
「……嫌だよ、星野くん。置いていかないでよ。私、星野くんのいない暗闇なんて、怖くて歩けないよ……」
堪えきれずに、大粒の涙がポロポロと溢れて、彼の手の甲を濡らした。
まだこれが恋だなんて、絶対に向こうには認めたくない。認めちゃったら、明日から彼がいない世界を生きなきゃいけなくなる現実が、生きていけないくらいに怖くなるから。
だけど、星野くんは弱々しく首を振って、私の涙を拭うように、その大きな手のひらで私の頬をそっと包み込んだ。
「置いてかねぇよ。……水月、よく聞け」
星野くんは、これが最期の約束だと言うみたいに、かすむ私の目を真っ直ぐに見つめて、静かに微笑んだ。
そして、繋がれていた管をそっと押しのけるようにして、私の肩を引き寄せた。
「星はさ……昼間だって、曇りの日だって、見えないだけで本当は、ずっと空で光ってるんだよ。……だから、お前の世界から光が全部消えたって、俺はお前の心の中で、ずっと光り続ける星座になってやる。……お前の暗闇は、俺が一生、一歩先から照らしてやるから。水月」
彼が最期に遺したのは、私の名前を呼ぶ声と、「俺がお前の星座になってやる」という、眩しすぎる約束だけだった。
「好き」とも「愛してる」とも、彼は一言も言わなかった。最後まで私をからかうような、不器用な星野くんのままで。
だけど、その言葉の代わりに、彼の顔がゆっくりと近づいてきた。
触れたのは、驚くほど冷たくて、でもどうしようもないくらい優しい、彼の唇だった。
最初で、
最後の、
静かなキス。
言葉にできなかった彼のすべての愛が、熱になって、私の唇から身体の奥へと流れ込んでくる。
(――星野くん)
胸が引き裂かれそうになるほどの愛おしさに、私は目を閉じて、彼の背中にそっと手を回した。壊れ物を扱うように優しく重ねられた唇が、ゆっくりと離れていく。
直後――
「ピッ……ピッ……ピーーーーーーーーーーーーーーー」
心臓の機械の音が、冷たく、長く張り詰めた一本のフラット音に変わった。
私の頬を包んでいた彼の手の力がすうっと力が抜けて、ベッドの上へと落ちていく。
「星野くん……? ねぇ、嘘でしょ、目を開けてよ……っ!」
彼の胸に耳を当てても、あのトクン、トクンという温かい鼓動は、もう二度と聴こえてこなかった。嘘だ。そんなはずない。さっきまで、あんなに優しく私を抱きしめてくれていたのに。私の唇には、まだ彼の唇の冷たくて切ない熱が残っているのに。
「嫌だよ……! いかないで! 星野くん、星野くん!!」
喉の奥が引き裂けそうなくらい、私は彼の名前を何度も、何度も叫んだ。
静まり返った白い病室に、私の狂ったような叫び声と、無機質な「ピー」という電子音だけが響き渡る。
どうして、もっと早く気づけなかったんだろう。
どうして、大嫌いだなんて突っぱねて、ツンツンした態度ばかり取っていたんだろう。
彼が自分の命を削りながら私を照らしてくれていたのに、私は自分のことばかりで、彼が一人で抱えていた暗闇の深さに、どうして最初から寄り添ってあげられなかったんだろう。
「ごめんなさい……っ、ごめんね、星野くん……! 私、君に何も返せてないよ……! 意地悪ばかり言って、傷つけて、私のバカな強がりのせいで、大切な時間をいっぱい奪っちゃって……っ!」
込み上げてくるのは、痛いほどの後悔だった。
普通の恋がしたいなんて、贅沢なことを言わなければよかった。
一緒にストロベリームーンを見たいなんて、彼に無理をさせなければよかった。
私の目が失明するなんてどうでもいいから、神様、お願いだから私の目を全部あげるから、この人の心臓を動かして。この人を私から奪わないで。
「私を一人ぼっちにしないでよ……っ! 星座になんてならなくていい、遠い星のところになんて行かないで!! どんなに私の世界が真っ暗になったっていいから、お願いだから、ここにいて、隣で生きててよ……!!」
彼の動かなくなった冷たい身体にすがりつき、私は子供のように大声を上げて泣き叫んだ。制服の胸元を涙で濡らしながら、何度も彼の名前を呼び続けた。けれど、いくら叫んでも、いくら泣いても、星野くんの切れ上がった綺麗な瞳がもう一度開くことはなかった。
窓の外を見上げても、私のぼやけた目には、今年最後の一番冷たい満月が、ただにじんで白く光っていることしか分からない。
いつも私の暗闇を眩しいくらいに照らしてくれていた一番星は、今、私のすべての後悔と引き換えに、夜空の向こうへと静かに落ちていってしまった。
そうか。そうだったんだ。
星野くん。
好きだよ。
大好きだよ。
愛してるじゃ、もう全然収まり切れないよ。
届かない愛の言葉が、私の喉の奥でドロドロと溢れては消えていく。
私は彼を壊れるほど強く抱きしめたまま、ピーという冷酷な音が鳴り響く白い部屋のなかで、ただ声が枯れるまで、世界で一番切ない涙を流し続けることしかできなかったんだ――。
夏祭りに行かせたことを未だ後悔していた。
『心不全症』。彼の命の砂時計は、ついに最後の数粒になろうとしていた。
「……ねえ、星野くん。今日さ、今年最後の満月なんだって」
面会時間が終わる間際、静まり返った白い病室で、私はベッドの横のパイプ椅子に座り、彼の冷たくなりかけた左手をぎゅっと握りしめていた。
ベッドの上の星野くんは、いろんな管に繋がれて、呼吸をするだけでも苦しそうだった。
部屋の片隅では、彼の弱り切った心臓の鼓動を伝える機械が、
「ピッ……ピッ……ピッ……」
と、痛々しいほどに遅いテンポで、無機質な電子音を刻み続けている。
いつもの意地悪そうな笑顔を作る余裕なんてないはずなのに、彼は私の声を聞くと、ゆっくりと微かに瞳を開けた。
ぼやける私の視線のなかで、彼の切れ上がった瞳だけが、やっぱり昨日の夜の一番星みたいに綺麗に光っている。
「……コールド、ムーン……だろ」
酸素マスクの奥から、掠れた、でも驚くほど優しい彼の声が響いた。
「天体観測オタクの……俺が、教えたもんな。冬の月は、空気が冷たくて乾燥してるから、遮るものが何もない。……だから、暗闇が深ければ深いほど、一番、くっきりと綺麗に輝くんだ」
星野くんはそう言って、私と繋いでいる手に、微かに力を込めた。
彼の手のひらを通じて、弱々しく、でも確かに刻まれる心臓の鼓動が、私の手のひらに直接響いてくる。
「水月。お前の世界が、これからもっと悪くなって……来年の春に、完全に真っ暗になってもさ。……お前は、そこで一番綺麗に輝く月んだよ。だから、暗闇を怖がるな」
「……嫌だよ、星野くん。置いていかないでよ。私、星野くんのいない暗闇なんて、怖くて歩けないよ……」
堪えきれずに、大粒の涙がポロポロと溢れて、彼の手の甲を濡らした。
まだこれが恋だなんて、絶対に向こうには認めたくない。認めちゃったら、明日から彼がいない世界を生きなきゃいけなくなる現実が、生きていけないくらいに怖くなるから。
だけど、星野くんは弱々しく首を振って、私の涙を拭うように、その大きな手のひらで私の頬をそっと包み込んだ。
「置いてかねぇよ。……水月、よく聞け」
星野くんは、これが最期の約束だと言うみたいに、かすむ私の目を真っ直ぐに見つめて、静かに微笑んだ。
そして、繋がれていた管をそっと押しのけるようにして、私の肩を引き寄せた。
「星はさ……昼間だって、曇りの日だって、見えないだけで本当は、ずっと空で光ってるんだよ。……だから、お前の世界から光が全部消えたって、俺はお前の心の中で、ずっと光り続ける星座になってやる。……お前の暗闇は、俺が一生、一歩先から照らしてやるから。水月」
彼が最期に遺したのは、私の名前を呼ぶ声と、「俺がお前の星座になってやる」という、眩しすぎる約束だけだった。
「好き」とも「愛してる」とも、彼は一言も言わなかった。最後まで私をからかうような、不器用な星野くんのままで。
だけど、その言葉の代わりに、彼の顔がゆっくりと近づいてきた。
触れたのは、驚くほど冷たくて、でもどうしようもないくらい優しい、彼の唇だった。
最初で、
最後の、
静かなキス。
言葉にできなかった彼のすべての愛が、熱になって、私の唇から身体の奥へと流れ込んでくる。
(――星野くん)
胸が引き裂かれそうになるほどの愛おしさに、私は目を閉じて、彼の背中にそっと手を回した。壊れ物を扱うように優しく重ねられた唇が、ゆっくりと離れていく。
直後――
「ピッ……ピッ……ピーーーーーーーーーーーーーーー」
心臓の機械の音が、冷たく、長く張り詰めた一本のフラット音に変わった。
私の頬を包んでいた彼の手の力がすうっと力が抜けて、ベッドの上へと落ちていく。
「星野くん……? ねぇ、嘘でしょ、目を開けてよ……っ!」
彼の胸に耳を当てても、あのトクン、トクンという温かい鼓動は、もう二度と聴こえてこなかった。嘘だ。そんなはずない。さっきまで、あんなに優しく私を抱きしめてくれていたのに。私の唇には、まだ彼の唇の冷たくて切ない熱が残っているのに。
「嫌だよ……! いかないで! 星野くん、星野くん!!」
喉の奥が引き裂けそうなくらい、私は彼の名前を何度も、何度も叫んだ。
静まり返った白い病室に、私の狂ったような叫び声と、無機質な「ピー」という電子音だけが響き渡る。
どうして、もっと早く気づけなかったんだろう。
どうして、大嫌いだなんて突っぱねて、ツンツンした態度ばかり取っていたんだろう。
彼が自分の命を削りながら私を照らしてくれていたのに、私は自分のことばかりで、彼が一人で抱えていた暗闇の深さに、どうして最初から寄り添ってあげられなかったんだろう。
「ごめんなさい……っ、ごめんね、星野くん……! 私、君に何も返せてないよ……! 意地悪ばかり言って、傷つけて、私のバカな強がりのせいで、大切な時間をいっぱい奪っちゃって……っ!」
込み上げてくるのは、痛いほどの後悔だった。
普通の恋がしたいなんて、贅沢なことを言わなければよかった。
一緒にストロベリームーンを見たいなんて、彼に無理をさせなければよかった。
私の目が失明するなんてどうでもいいから、神様、お願いだから私の目を全部あげるから、この人の心臓を動かして。この人を私から奪わないで。
「私を一人ぼっちにしないでよ……っ! 星座になんてならなくていい、遠い星のところになんて行かないで!! どんなに私の世界が真っ暗になったっていいから、お願いだから、ここにいて、隣で生きててよ……!!」
彼の動かなくなった冷たい身体にすがりつき、私は子供のように大声を上げて泣き叫んだ。制服の胸元を涙で濡らしながら、何度も彼の名前を呼び続けた。けれど、いくら叫んでも、いくら泣いても、星野くんの切れ上がった綺麗な瞳がもう一度開くことはなかった。
窓の外を見上げても、私のぼやけた目には、今年最後の一番冷たい満月が、ただにじんで白く光っていることしか分からない。
いつも私の暗闇を眩しいくらいに照らしてくれていた一番星は、今、私のすべての後悔と引き換えに、夜空の向こうへと静かに落ちていってしまった。
そうか。そうだったんだ。
星野くん。
好きだよ。
大好きだよ。
愛してるじゃ、もう全然収まり切れないよ。
届かない愛の言葉が、私の喉の奥でドロドロと溢れては消えていく。
私は彼を壊れるほど強く抱きしめたまま、ピーという冷酷な音が鳴り響く白い部屋のなかで、ただ声が枯れるまで、世界で一番切ない涙を流し続けることしかできなかったんだ――。