世界で一番切ない恋
ーー満月ーー


 ――コン、コン、と、点字器の小さな針の音が、深夜の白い病室に静かに響いていた。
動かすのすら億劫になってきた鉛のように重い右手を、俺は必死に震わせながら、一枚の厚い紙の上にぽつぽつと突起を刻んでいく。
今、何時だろう。もう時計の針を見るだけの視力も、今の俺の心臓には残っていなかった。
「……はぁ、っ、……」
酸素マスクの奥で、短く息を吐き出す。
ただ紙に点字を打つだけなのに、まるで全力疾走をした後のように胸がギチギチと激しく痛んで、視界がチカチカと明滅した。
俺の『心不全症』の砂時計は、もう、最後の数粒しか残っていない。お医者さんの言った通り、俺は本当に、今年の冬を越せないみたいだった。
けれど、俺の指先は、どうしても止まってくれなかった。
(水月、お前は今、ちゃんと眠れてるか?)
昨日、学校の階段の踊り場で、俺の胸元を小さな拳で叩きながら「自分のために大切な時間を使ってよ!」と、ボロボロに泣きじゃくっていた水月の顔が、暗闇の脳裏に鮮やかに蘇る。
あの時、壊れ物を扱うように水月を抱きしめた腕の温もりが、まだ俺の皮膚に残っている。
バカだな、水月は。
俺がこれ以上、自分のために何の時間を使えっていうんだよ。
俺の心臓はもう、普通に生きていくためには動いてくれない。
だけど、お前のこれからの暗闇を照らす『道標』になるためなら、この壊れかけの心臓だって、あと少しだけ、死に物狂いで動いてくれるんだ。
学校じゃ、俺のことを「流星群の中心にいるモテる男」なんて言って、いつもツンツンして大嫌いだなんて顔をしてたくせに。
本当は、俺がちょっとからかうだけで、すぐに耳まで真っ赤にしてそっぽを向く。
お前の目の異変をバラしたときも、不良品みたいになりたくないと、子供みたいにわんわんと泣きじゃくった。
愛おしかった。
どうしようもないくらい、水月のことが、愛おしくて堪らなかった。
「……死にたくねぇな、本当に」
誰もいない深夜の病室で、俺は点字器を握ったまま、ぽつりと声に出して呟いた。
本当は、もっと水月とくだらない話をしたかった。
あいつが時々、隠れて練習して作ってくれたあのご飯、本当はもっと「めちゃくちゃ美味い」って笑って、たくさん食べてやりたかった。
来年の春、あいつの目が完全に真っ暗になってしまった時、俺がその細い手をぎゅっと繋いで、新しい未来の街をずっと隣で歩いてやりたかった。
でも、俺にはもう、その未来を生きる資格がない。
だから水月。
お前がこの手紙を読み終えたとき、どうか、俺を失ったあの暗闇の場所で、ずっと立ち止まらないでほしい。
お前がいつか、俺以外の誰かと出会って、恋をして、幸せな家庭を築いたとしても、俺は絶対に天国で怒ったりしないから。
俺は、お前の心の中で、ずっと光り続ける星座になってやるって約束したろ。
お前が顔を上げれば、いつだって俺の言葉がお前の足元を照らしてやる。
開けたままの目がどんなに真っ暗になっても、俺の言葉をお前の光にしてくれ。
だから、暗闇を怖がらないで、生きてくれ。
「……ふっ、最後まで、格好悪い手紙になっちゃったな」
最後の点字を打ち終え、俺は満足感のなかで、静かにペンを置いた。
繋がれた機械が、「ピッ……ピッ……」と、俺の最期のカウントダウンを刻んでいる。
水月。まだお前は、俺のことが大嫌いだなんて強がっているかもしれないけれど。
でもね――お前の世界が全部真っ暗になったって、俺の愛だけは、お前のなかにずっと、一番星みたいに残り続けるからさ。
世界で一番、お前を愛してた。
俺の意識がゆっくりと冷たい闇へ落ちていく直前、俺の心の中には――
泣き虫で、強がりで、世界で一番綺麗な『水月』の笑顔だけが、眩しいくらいに輝いて見えていたんだ――。
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