世界で一番切ない恋
ーー掠れていく文字ーー
翌朝、ひどく重い瞼を開けた。鏡を見ると、泣きはらした目が少し赤くなっている。
リビングに降りると、お母さんは何も言わずに、ただ静かに朝食のトーストを差し出してきた。お互いに昨夜の衝突が気まずくて、一言も言葉を交わさないまま、私は逃げるように家を出た。
学校に着くと、宮元詩織はいつもと変わらない、ひだまりみたいな笑顔で「みーちゃん、おはよう!」
と手を振ってくれた。
その明るさに、私はどれほど救われただろう。
だけど、その救いは、2時間目の現国の授業中に音を立てて崩れ去った。
「じゃあ、黒板のこの部分、教科書の余白にメモしておくように」
先生ののんびりとした声が響き、周りの生徒たちが一斉にシャープペンの芯を出す音が教室に広がる。
隣の席の詩織も、真面目な顔をしてノートに向かい、サラサラと綺麗な文字を滑らせていた。
(……私も、書かなきゃ)
そう思って、黒板に目を向けた、その瞬間だった。
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がる。
「え……?」
見えない。
いつもなら普通に読めていたはずの、先生がチョークで書いた白い文字が、まるで水に濡らしたみたいに中央から滲んで、掠れてしまっている。
目を細めて、必死に焦点を合わせようとした。だけど、見ようとすればするほど、視界の真ん中に薄暗いモヤのようなものがかかって、文字の輪郭がぐにゃりと歪んでいく。
(嘘……嘘でしょ。昨日までは、まだ、ちゃんと見えていたのに)
お医者さんが言っていた『急速な壊死』という言葉が、冷たい刃物になって脳裏を突き刺した。
十一ヶ月かけてゆっくり消えていくんじゃないの?
なんで、もう、こんなに。
周りのみんなは、先生の書く文字を普通に読み、普通にノートに書き写している。
ガリガリ、サラサラ、と教室中に響く筆記用具の音が、
まるで私一人だけを置いていくカウントダウンのように聞こえて、
急に息が苦しくなった。
焦れば焦るほど手元が震えて、
自分が病気だと考えてしまって、
シャープペンシルがノートの白い紙の上で虚しく彷徨う。
黒板の文字が見えないから、何を写せばいいのか分からない。
昨日までは当たり前にできていた「ノートを取る」というだけのことが、今の私には、世界で一番難しいことに思えた。
「みーちゃん? どうしたの? 手、止まってるよ」
隣の席から、詩織が心配そうに覗き込んできた。
詩織の綺麗で真っ直ぐな瞳が、私の手元の、白紙のままのノートを見つめている。
「あ、ううん……なんでもない。ちょっと、考え事してただけ」
私は慌てて引きつった笑顔を作り、適当な文字をノートになすりつけるようにして書いた。
親友である詩織にすら、本当のことが言えない。
言えば、彼女のあの優しい顔が、
一瞬にして昨夜のお母さんのような「絶望の顔」に変わってしまうのが、
そしてー自分が消えていくのが、
たまらなく怖かった。
私の世界が、音を立てずに、少しずつ、でも確実に欠け始めている。
ノートに落ちた自分の手のひらを見つめても、その輪郭は、さっきよりもほんの少しだけ、ぼやけて見えた。
リビングに降りると、お母さんは何も言わずに、ただ静かに朝食のトーストを差し出してきた。お互いに昨夜の衝突が気まずくて、一言も言葉を交わさないまま、私は逃げるように家を出た。
学校に着くと、宮元詩織はいつもと変わらない、ひだまりみたいな笑顔で「みーちゃん、おはよう!」
と手を振ってくれた。
その明るさに、私はどれほど救われただろう。
だけど、その救いは、2時間目の現国の授業中に音を立てて崩れ去った。
「じゃあ、黒板のこの部分、教科書の余白にメモしておくように」
先生ののんびりとした声が響き、周りの生徒たちが一斉にシャープペンの芯を出す音が教室に広がる。
隣の席の詩織も、真面目な顔をしてノートに向かい、サラサラと綺麗な文字を滑らせていた。
(……私も、書かなきゃ)
そう思って、黒板に目を向けた、その瞬間だった。
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がる。
「え……?」
見えない。
いつもなら普通に読めていたはずの、先生がチョークで書いた白い文字が、まるで水に濡らしたみたいに中央から滲んで、掠れてしまっている。
目を細めて、必死に焦点を合わせようとした。だけど、見ようとすればするほど、視界の真ん中に薄暗いモヤのようなものがかかって、文字の輪郭がぐにゃりと歪んでいく。
(嘘……嘘でしょ。昨日までは、まだ、ちゃんと見えていたのに)
お医者さんが言っていた『急速な壊死』という言葉が、冷たい刃物になって脳裏を突き刺した。
十一ヶ月かけてゆっくり消えていくんじゃないの?
なんで、もう、こんなに。
周りのみんなは、先生の書く文字を普通に読み、普通にノートに書き写している。
ガリガリ、サラサラ、と教室中に響く筆記用具の音が、
まるで私一人だけを置いていくカウントダウンのように聞こえて、
急に息が苦しくなった。
焦れば焦るほど手元が震えて、
自分が病気だと考えてしまって、
シャープペンシルがノートの白い紙の上で虚しく彷徨う。
黒板の文字が見えないから、何を写せばいいのか分からない。
昨日までは当たり前にできていた「ノートを取る」というだけのことが、今の私には、世界で一番難しいことに思えた。
「みーちゃん? どうしたの? 手、止まってるよ」
隣の席から、詩織が心配そうに覗き込んできた。
詩織の綺麗で真っ直ぐな瞳が、私の手元の、白紙のままのノートを見つめている。
「あ、ううん……なんでもない。ちょっと、考え事してただけ」
私は慌てて引きつった笑顔を作り、適当な文字をノートになすりつけるようにして書いた。
親友である詩織にすら、本当のことが言えない。
言えば、彼女のあの優しい顔が、
一瞬にして昨夜のお母さんのような「絶望の顔」に変わってしまうのが、
そしてー自分が消えていくのが、
たまらなく怖かった。
私の世界が、音を立てずに、少しずつ、でも確実に欠け始めている。
ノートに落ちた自分の手のひらを見つめても、その輪郭は、さっきよりもほんの少しだけ、ぼやけて見えた。