我妻教育
第五章

1.後継者の懺悔

ジャンの気迫のこもった演技は、私の閉塞した胸の中に、一吹きの爽快を駆けめぐらせた。



私は、ジャンの試合結果を見届けることなく、先にホテルに帰らせてもらった(もちろん借りた自転車は丁重に返却した)。


風邪気味の未礼をホテルに残してきたからだ。



ジャンは、自らの壁を一つ乗りこえてみせた。


私は…。



ホテルの上層階の部屋にむかうエレベーターの中で一人になると、一時の爽やかな風はどこかへ消えていった。


表示されていく階数が増えるにつれ私の心は再び、重暗くフタが幾重にも被さっていく…。



部屋に戻り、出迎えてくれたチヨに、未礼の様子を聞く。


少し熱があり、医者にみせたあと、今は薬を飲んで眠っているのだそうだ。


百度参りには連れていかなくて正解だった。
やはり、こじらせてしまったようだ。



兄の状況を尋ねたが、新しい情報は入っていないという。


犯人側との交渉が、決裂したのかいなか定かではないが、犯人側との連絡が途絶え、兄の消息は依然不明のまま…。



私の心は、深い海の底に沈んでいくように落ちていった。

すくいあげる方法を私は知らない。




私は、未礼が眠る部屋に入った。


額に冷たいタオルをのせた未礼は、静かに眠っていた。


チヨがタオルを冷やしなおすために、未礼の額に手を伸ばす。


「私が」

チヨに断り、ベッド脇のテーブルの上に置いてある氷の入った桶にタオルをつけた。

タオルを冷やし、かたくしぼる。

未礼の額に、ゆっくりとのせた。



「啓志郎お坊ちゃま。チヨは、未礼お嬢さまが目を覚まされたときに召し上がっていただく卵酒の用意をしに少し出てきます。
すぐに戻ってまいりますのでしばらくお嬢さまについていていただけないでしょうか?」


チヨは、エプロンを外した。


「ああ。頼む」


私の返事を聞くと、チヨは一礼して部屋から出ていった。


「チヨの卵酒は、熱が出たとき飲むと、よく効く」


眠る未礼相手に、独り言のようにつぶやき私はベッドの横に椅子を置いて座った。

しばらく規則正しく寝息をたてる未礼の顔を眺めていた。

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