クライシス
「どうする?まだ抗ウイルス薬は完成してへんのやろ?」
 井上が心配そうに呟いた。雄介は井上を見た。
「今から大至急、東署にある科捜研に連れて行ってもらえないっすか?」
「科捜研?」
 雄介は黙って頷いた。

―― 一月十日十二時十五分 大阪市東署内科捜研――
 井上が運転するパトカーが科捜研の前に到着すると、雄介だけ降りた。
「おい、どうすんねん!」
 井上が叫ぶ。
「ちょっと待っててください!」
 雄介は走って中へと入る。そして一目散に科捜研の化学室へと向かった。
 化学室に入ると電気を点ける。今朝までのハードワークで誰もそこには居なかった。
 そのまま雄介はガラスケースの前へと向かった。そして中を見る。その瞬間に雄介の顔色が変わった。
 無い……?
 そのまま、別の扉を開ける。そして、机の中までも探す。雄介の顔に焦りが出始めた。
「探し物はこれですか……?」

―― 一月十日十二時 大阪府警本部――
「渡航記録?」
「ええ、これなんですが」
 川村は一枚の紙を赤木に見せた。
「外事課で、市橋君が言っていたシルヴィに付いて調べていたんです。私は女性の化学者ばかりを気にしていたんですが……」
 赤木はその記録を見つめる。
「これって?」
「この人は、去年までアメリカに何度も渡航しています。そして、これを見てください」
 もう一枚の紙を赤木に見せた。
「今年、あ、いえもう去年ですね。この人は中国に渡っています。そして中国からの足取りが不明なまま、その半月後に再び中国から日本に帰ってきています」
「と、言う事はその間に?」
「ええ、恐らくは北朝鮮の手引きで秘密裏に渡っていたんでしょう」
「でも、まさか……この人が?」
「私も目を疑いました」
 川村は赤木を見つめた。

―― 一月十日十二時四十分 大阪市東署内科捜研――
 後ろから急に声を掛けられて一瞬驚いた。しかし、雄介はゆっくりと振り返った。声で誰がそこに居るかわかったからだ。
 ……そこには試験管を手に持った、楠木が立っている。
 雄介はじっと楠木を見つめた。
「驚きましたねぇ。まさか、完成させていたとは……抗ウイルス薬の複製を……!」
 その言葉に何も返さずに雄介は楠木の方へと一歩足を出した。
「おっと、動かないでください?私も扱いには慣れていないもんですから」
 よく見ると、楠木の手には銃が握られている。雄介の額に汗が流れ始めた。
「中々、優秀な教え子を持つのも……考えもんですね?さて、何故あなたが私にこれを報告しなかったか……いや、違いますね」
 そう言って楠木は「フォフォフォ」と笑う。
「いつから、気が付いたんでしょうかね?私の正体を?君がわざわざ、大学の研究室を抜けて、この場所で抗ウイルス薬を作っていたのは、私に見つからない様に、ですね?」
 その通りだった。その為に府警の科捜研の研究員総出で手伝ってもらっていたのだ。
雄介は楠木を見つめ、軽く息を吐いた。
「……アメリカにも、ウルトラマン好きっておるんやなって思いまして」
 その言葉に楠木の額がピクリと動いた。
「CIAから聞いた時に、何か引っかかったんすよ。シルヴィって女の名前をね。でも、それは由香が言ってたんすよね。……あ、違う。元々は信二か」
 楠木が雄介を見つめる。
「昔、信二があなたの事を『シルヴィ』ってあだ名を付けた事があるんすよ。分かりますよね?」
「シルヴィ・バルタン……フランス人歌手ですね?古い歌手を知っていたもんです」
「そう。で、何でそれを付けたかと言うと、あなたの笑い方。そのフォフォフォってのが、ウルトラマンに出て来るバルタン星人そっくりだって。そこからシルヴィ。あの時は何てややこしいあだ名を付けるんだ、こいつ。って思ってましたが、まさか役立つ時が来るとは」
「フォフォフォ……あの子は成績は良くなかったが、ユーモアがありました。そうですね。私がアメリカの製薬会社で研究をしていた時に、ウルトラマンマニアの者がいましてね。彼に私のあだ名を付けてもらいましたよ。世界には同じ考えをする者が居るもんですね」
 雄介は楠木を見つめる。
「俺も、それだけであなたを疑いたくなかった。でも、昔あなたに教えられた。このレッドスノウの講義をしてもらっている時に」
 楠木が首を傾げた。
「全ての物事を疑え、と。だから、俺は試したんですよ。あの化学構造式の暗号。昔、あなたが授業で使用していた暗号解析で」
 楠木が目を開けた。
「そんなものを、覚えていたんですか……?」
 雄介の目が赤くなってきた。
「俺は……あなたに教わった事を全部覚えている。どんなことも」
 楠木を見つめる雄介の目から涙が一筋流れる。
「何で……や?」
「うん?」
「何で!こんな事をした!何でこんな物を作った!何で……何で北朝鮮に売った!」
 雄介の目から涙が流れる。楠木はそれを見つめた。
「俺は、俺は親父が死んでから!あんたを父親の様に思ってた!なのに、なのに何で……」
 肩を落とし雄介が泣く。楠木は少し微笑んだ。
「……私も、君を息子の様に接していたつもりです」
 雄介が顔を上げる。
「だけどね。私は見たかった。レッドスノウの美しさを。あの衝撃を。私が考えた事を体現したかったんです。……君もそうでしょ?見たかったんでしょ?レッドスノウを」
 その言葉に雄介の涙が止まる。
「私達は似たもの同士。正に親子なのかもしれませんね」
 楠木は優しく雄介を見つめる。
「本当はね、パンデミックを見たかったんです。ですが、流石にねえ、それは人道的にどうかと思ったんですよ。私にも一応人の心がありましてね。だから、誰か一人でも感染してくれれば、と思ってたんですが……聞きましたよ?鈴宮君が感染した様ですね」
 雄介の顔が歪む。
「これを、君は欲しい。だが、私は渡したくない。これは難しい命題ですね?さて、どうしましょうか?」
「教授……お願いします。それを、それをどうか――」
「おっと動かないで、と言いましたよね?大丈夫。感染者は脳が最初に死にます。苦しさは余りありませんから。私は死ぬ所よりも、どの様に粉になるのかを見たいだけです」
「教授!」
 雄介は涙を流しながら震える。
「雄介。君は本当に私の教え子の中で優秀でした。一番かもしれません。それだけに残念だ。あの子の経過観察を共に出来ないのは」
 楠木は雄介に向ける銃を握りなおした。そして、左手にある試験管を上にあげる。
「それでは、どちらから……そうですね。人は絶望すると死にやすくなる。こちらから行きましょう」
「止めろ!」
 雄介が言うと同時に楠木の手から試験管が離れた。そして、それは重力に乗って静かに地面に向かう。
 雄介は走る。そして、思い切り試験管に向かって飛び込んだ――。
 目の前でガラスが割れる。そして、液体が飛び散る姿を雄介はスローモーションで見ていた。
 叫びにならない叫びが雄介から放たれた。それは絶望の声。一縷の望みを絶たれた声。
「さよなら、です」
 小さく楠木が言い放つ。そして響く。銃声が。
 パン――。
 目の前が暗くなった気がした。だが、すぐ後に再び光が現れる。目の前で倒れる楠木が、雄介に一瞬の影を作った様だ。
 雄介の目の前には楠木が倒れている。そして、その向こう側には銃を構えた井上と赤木達が立っていた。
「大丈夫か!市橋!」
 赤木達が駆け寄る。雄介は呆けたまま楠木を見た。
 楠木の胸は赤く染まっていた。
「教授……」
 雄介は呟く。楠木は小さく笑った。
「教授!教授!」
 雄介は叫びながら楠木の胸を押さえた。
「ゆ、雄介……」
 小さく楠木が呟いた。
「喋るな!今、塞ぐ!」
「……雄介、もう良い。私の家に……」
「え?」
「私の家に……行け」
「家?」
 雄介の言葉に楠木が笑う。そして手を雄介の顔に当てた。
「本当に……優秀だ……雄介――」
 そのまま楠木は目を閉じる。雄介は叫びながら楠木の心臓マッサージをした。だが、戻らない。それは無理だった。そのまま、楠木は永遠に目を開ける事はなかった……。
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