liftoff
「……くぅぅぅ」
 思わず、そんな意味の無い言葉を発してしまう。
 それは、あの、一瞬の妄想、のせいだ。
 さっき、幸か不幸かと言ったけれど、訂正。不幸にも、と言うべきだった。
 どうせなら、全部記憶が無かったら良かったのに。
 一瞬の妄想。それは、彼に、抱かれてみたい、と思ってしまったこと。
 何故か全然分からない。根拠もない。ただ急に、いきなり、そう思ってしまった。
 危ういことに、それが、その時は、言葉となって、喉元までこみあげていた。
 すぐ、その考えの愚かさに気付いて、おかげで、言葉としてそれを発することはなかったけれど、その分、気持ちの方に無理が行ってしまったようだった。でも、言ってしまうよりは良いのだけれど。もし言ってしまったら、わたしは今頃、どうしているのだろう。どんな気持ちで、居るのだろう。
 それにしても、何故、彼と寝たいだなんて思ってしまったのだろう。
 確かに、彼は、美しい男だ。髪も、容姿も、仕草も。おまけに、優しいときた。
 まるで、人工的に理想を作り上げたみたい。
 時々、彼が生身の人間だという気が、しないほど。
 だから、実は、わたしは、彼のことを怖がっているのかもしれない。
 本当は、興味があって、触れたいし、食べてしまいたい。でも、いざ口に入れてみたら、裏切られるのではないか、と思っているのかも。
 そうか。
 あの妄想は、根拠ゼロ、ってことはないのね。
 わたしは、彼に、本能で、恋をしている。
 何故か分からない、なんて、自分でそう思いたいだけなのよ。
 自分の本能の部分を、わたしは自分で認めたくないのね。もしかして、その認めたくないという気持ちが、恐怖にすり替わっているのかも。
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