平安物語=短編集=【完】



そして昨日、睦月十五日、人目につかない夜中を選んで殿は山に入りました。

最後の別れになってやっと、宮様に情愛の籠もった言葉を残して。


「貴女は私にはもったいないような素晴らしい女(ヒト)だった。
身分は当然の事ながら、人となりや趣向など非のつけどころが無い。
そんな貴女や貴女の大切な子供たちを、私は随分と粗雑に扱って来てしまった。
もっと別の、親王などと結婚していたらきっと幸せだったろうに。
憎いはずの人の子を我が子のように育ててくれた事にも心から感謝している。
私が政に明け暮れて気が回らないような内の事も、本当によくやってくれた。
貴女無しでは私はここまでやってこれなかっただろう。
本当にそう思うのだ。
貴女に憎まれて当然の私だが、貴女をかけがえのない存在として大切に思っていた事は信じて欲しい。
最後になってこんな事を言うのは卑怯かもしれないが…本当に大切に思うよ。」


宮様は、ただただ涙に震えていらっしゃいました。

それを何とか抑えて涙を拭い、上げた御顔には美しい笑みが浮かんでいました。

「本当に…本当に卑怯ですわ。
そんな貴方をここまで愛してしまった私は、愚か者ですわね。」

その言葉に、殿はフッと微笑を浮かべました。

今まで見た事の無いような優しい眼差しで宮様を見つめます。


「お別れだ…。」

「ええ…早くお行きになって…。」


静かに立ち上がったかと思うと、立膝でそっと宮様を抱きしめました。

宮様の御目からはとめどなく涙があふれます。

体を離して立ち上がり、背を向けた殿は、二度と振り返りませんでした。

宮様はその場でじっと涙を流していらしゃいましたが、牛車が出て行く音が聞こえて、はっと立ち上がって御簾の外まで出ておしまいになりました。

そこから見えたのは、もう屋敷の門を出ようとする殿の牛車と美しすぎる満月――

宮様は、牛車が見えなくなってもしばらくその場に立ち尽くしていらっしゃいました。







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