雨
帰ってきたのか。
そう思うと、沈んでいた意識がゆっくりと浮上した。
包丁をまな板の上に置き、ふきんなど使うことが面倒なので、割烹着で軽く手をふいて、玄関に向かった。
玄関が全開にされているのだろうか、普段なら薄暗い廊下が、橙に染まっている。
古臭くてカビ臭くて大嫌いだった空間がすべて同じ色に染まって、ほこりさえきらきらと輝いている情景。そのさまが妙に幻想的だった。
ぼんやりと景色に見とれながら、足を、一歩、また一歩と前に出す。
ひときわ色の強くなった場所に出てみれば、景色を染める橙と、それによく似た色素の薄い髪を捉えた。
そして、そのそばにある長い黒髪も。
あの日のように、少女をかついだ藤士は、たった一言私に告げた。
「千代、水を」
…それはとてもかなしげで、それなのにどこかほっとしているような、顔で。