pp―the piano players―
「早紀」
「言わせて」
 その先は、辛いこと、なんだろう。
 僕は早紀が包んでいる僕の手、そこから、顔を上げる。
 早紀は涙が零れるのを堪えている。それでも言葉を紡ぐ。
 自分の決意を伝えようと。

「わたしは、酒井君が好きだよ。誰かが隣にいることが、どんなに嬉しいことかを教えてくれた。だからわたしは、酒井君と結婚できない。わたしは、圭太郎君の隣にいたい。圭太郎君の、本当の家族になりたい」

 頭を殴られたかのように、意識が揺らぐ。
 早紀が僕の左手をいっそう強く握る。手が冷たい。
 もうペットボトルは僕の手の中にはなくて、車のポケットにある。手の甲は早紀の手のひらから温かさを奪っているようで、手の平はなにも掴めなくてただ握るだけだ。

「酒井君が満たしてくれたように、圭太郎君を満たしていたい」
 僕が早紀を満たしていた。
 僕は早紀を満たしていた?
 僕は、早紀が朝からずっとこの話をしようとしているのから逃げていたのに、

「僕は、早紀を苦しめていた」
 呟いた声に、早紀は大きく首を振る。それに合わせて、涙が頬へ零れる。
「違うよ、酒井君が一緒にいてくれたから、今のわたしがある。わたしが酒井君にいちばん伝えたいのは、ありがとうだよ」
 謝らない、と早紀は言った。
 早紀が謝ったら、早紀が僕に何か悪いことをしたことになる。僕が悪いのではない、と伝えるための宣誓だったのだ。

 では、早紀が悪いのか?
 いや、なぜ早紀が悪いんだ。大学生のあのとき、圭太郎の夢と、自分の夢と、二人の関係で雁字搦めになっていた早紀に、その気持ちを楽にするために、何よりも僕のために、僕を選び、僕を頼って欲しいと言ったのは僕じゃないか。
 僕のわがままに、早紀を付き合わせ、振り回していた五年間。いや、高校三年の、彼女の指に目を留めたあのときからの、日々。
 だからと言って、僕だって謝りたくない。僕は満たされていた。早紀の隣にいて、同じものを見て、食べて、彼女の笑顔を見て、手を繋ぎ、体を繋ぎ、共に過ごした時間。この世の終わりかと思ったあの日も、早紀が強く美しくそこに立っていたから、僕はその強さに体を委ね、心を保てた。
 早紀に伝えたいのは、僕だって感謝だ。
 その感謝を伝える毎日が、日常であってほしいと願った。だから僕は、早紀に求婚した。朝起きて、早紀の顔を見る毎日。同じ家で笑い合う毎日。ときにはけんかをするかもしれないけれど、きっと僕が先に謝る。アップライトのピアノを買おう。早紀と連弾をしよう。そのうちに、小さな命を授かるだろう。そしてその子もピアノを弾こう。そして僕は、早紀に感謝を伝えよう。それを願った。

 早紀はそれを願わなかった。
 その相手を、僕だと願わなかった。 

 早紀は何も言わずに、僕をまっすぐに見ている。
 このひとの、大きな瞳が涙に揺れる。

 ふと、母は父を、このような表情で見つめたのだろうかと思った。いや。
 あの明るく笑う両親の間に、このような苦しい時間があったのだろうか。いや。
 僕を温かく育ててくれた二人のように、僕は早紀とそういう家族になりたいと願った。

 早紀の願いは違う。
 早紀は圭太郎の居場所でありたいと願った。
 どこの馬の骨かわからない、と苦々しく呟いた圭太郎の。
 哀れな迷い猫、と書かれた圭太郎の。

 西日本の大震災のとき、早紀は両親を失った。親類を頼ってこちらへ来たが、ついには児童養護施設で暮らすことになった。
 僕は、そんな早紀自身の居場所になりたい、なれると思った。
 でも早紀は圭太郎の居場所になろうと願い、圭太郎も早紀が安定した居場所を得られることを願っている。その場所が、少しでも不安定になるとピアノを弾くことを身体が放棄してしまうほど、熱烈に。
 僕が望んだような温かい家庭を築くことではなく、もっともっと深く深く掘り下げた場所での繋がりを、揺るがない確かな地盤を作ることを、二人が求め合っている。響き合っている。

 僕たちは大人になった。
 早紀は過去の自分を救うように、子どもたちを救おうと手を伸ばしている。
 圭太郎は自分のルーツを求めるようにピアノに向かい、その花を開かせている。
 僕は、その開いた花を世界に届けようとしている。初めて圭太郎のピアノを聴いたときから、その才能に圧倒されているのだ。圭太郎との仕事が決まったとき、僕が担当しないという選択肢もあるにはあった。けれど、早紀のことを差し引いたって、僕がそれを望んだ。あのピアニストを世界に。心惹かれる仕事だった。
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