硝子の靴 ~夜帝の紅い薔薇~少女A~
「ただいま」

家へ帰り着き、玄関から声をかけると、母は、書斎から出てきた。

母は、主婦の傍ら、美に関する執筆活動をしている。

「おかえり。早かったね」

「うん」

「あら」

【あっ…】

母の「あら」の声に、眼鏡の事だと思い、私は、怒られるのを覚悟した。

私は、親の言うとおりにしない事は、悪い事だと思っているので、怒られるのを覚悟した。

「眼鏡、してないの」

案の定、眼鏡の事だった。

「ごめんなさい。出かける時、忘れてしまいました」

「そう」

母の言葉は、それだけだった。

私は、呆然とした。

私の両親は、多くは語らず、躾や自分の要望を私に言う時、物静かな口調で一度だけ言う。
そして、その意思は力強く、強制的で、断定して言う。

私は、これまで、そのひとつひとつを守り、親の言うとおりにしなかったことは一度もなかったので、しなかった時の、親の反応を知らない。

今日、それをしなかった時の反応を初めて見て、予想外の展開だった。

私は、母を見ながら呆然と佇む。

書斎に戻ろうとした母は、私の様子に、ふと振り返った。

「どうしたの」

「あ、ううん」

母は、私の返事を聞いて、私の目を覗き込むようにじっと見つめて、そして、納得をした時の様に頷いて、書斎へと戻った。


【怒られ…なかった…】

私は、安心感を覚えていた。

「部屋で勉強してるー」

「はーい」

私が、書斎の母に届く様に言葉を投げかけると、母も、書斎から私に届く様に返事をした。

私は、新しい気分で、二階の自分の部屋へと、階段を上がって行った。

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