世界の説明書
 「お前、お前達には解らない。俺達、俺達は、生きていたってしょうがない。ただ辛く、悲しいだけだ。」彼は急に冷静さを取り戻したかのように、たんたんと話し出した。

「俺の、俺のかあちゃんが死んじまった。この世で唯一俺の、俺の事を愛してくれた人だ。俺の為に自分の人生がめちゃくちゃになっても、熱いテントの中に押し込められても、なんの文句も言わずいつも優しく、お前は私の息子だから、そんな目に生んでしまってすまないね、と俺をかばってくれた。俺が、俺が子供の頃よく一人で公園で遊んでいると、薄暗くなった公園に体が弱いのに、寒い冬の日でも、俺を、俺を迎えに来てくれた。虐められて泣いて帰ってきた俺に、お前は優しい子だよ、優しすぎるから皆お前を虐めるんだよ、何もお前が悪くないのを私は知っている、と慰めてくれた。俺の、俺の、かあちゃんが死んじまった。死んじまったんだよ。分かるか、あんたに、分かるか、俺は、俺はいつも、一人で、か、か、かあちゃん、かあちゃん、ああーーー」

彼はそこまで離すと、突然泣き崩れた。失われていた過去の記憶が、彼の脳を覚醒させ、忘れていた悲しみの感情が一気に噴出した。正人は目の前で泣き崩れるぼろ雑巾のような男を静かに見つめていた。正人の怒りは沈黙した。そして、世界中の不幸は誰にでも平等に起こり得るきまぐれのようなものだと言う事を改めて感じた。自分の妻の死について述べていた男が、今度は自分の母親の死について一人勝手に語っているこの状況は、きっと神が正人に与えた何かしらのメッセージであると、正人は考えた。死ぬほど憎んでいたホームレス達、ホームレスという区切りだけで人を憎むようになっていた自分の心を変えてくれる出来事だった。しかし、何故、このホームレスは自分にこんな事を話したのだろう、妻の死についてあんな卑猥な言い方をしたのだろう、と考え始めたが、名子の学校の始業のチャイムが正人を現実世界に連れ戻した。
そして、正人は泣き崩れる男にかける言葉が見つからず、そっとその場を立ち去った。
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