ー親愛―



どんよりな曇り空




今にも手が届きそうなほど低い空




太陽がサンサンと照る天気も好きだけど こんな曇り空も嫌いじゃない




左手の傷口が少し疼く




寝過ごしたはずなのに…10分前に施設にたどり着く




駐車場に車を停めて足早に玄関へと向かう




後ろから 誰かが近づく足音




“おはよ”




聞き慣れた低い声 忘れられない人の声




“おはようございます”




私は慌ててカバンから大和のくれた眼鏡を取り出し 素早くかける




“眼鏡に変えたんだ。”



その優しく どこか野生的な瞳に、たじろいで身体の自由を利かなくなる




“眼鏡、汚れてる”




両手で丁寧に眼鏡は外され 袖で汚れを拭き取る




……ダメだ。これ以上そばにいたら、自分で自分が抑えられなくなる……




“返して下さい”




大和とは違う大きくて肉厚な手から 眼鏡を取り戻す




“悪りぃ………。あんた、その手…。”




険しい顔になり、私の左手を掴み 袖を捲る




気恥ずかしさと 後ろめたさから顔を背ける




“何やって…”




残念そうなため息混じりの声で 露になった包帯を外し始める




そこには 手首の傷と、大和のKissマークの下から見え隠れする《しんじ》の名前




“クソっ”




その言葉の意味がその時は 分からなかった




“ちょっと来い”




多田主任は この後、仕事が待っている事も忘れたように 私の左手をぐいぐいと、引っ張って行く




“ちょっ、仕事”




私の訴えは まるで耳には入っていないみたいで 、力強い腕を振り払う事もできなくて




それは……………このままどこかに連れ去って欲しいと言う気持ちと、左手が痛くて熱くて 振りほどけないのとで どうしてイイのか分からず……













そこからは まるで地獄絵図のよう
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