キミは聞こえる
あんまりではないか。
翔吾の受けていた現実は、地獄そのものだ。
母親とは本来、身を挺してわが子を護り、全身で愛を注ぐものだろう。
それなのに、女は翔吾を守るどころか極限状態にまで追い詰め、傷つけた。
その結果が、今の少年の霞みゆく後ろ姿である。
泉自身、十歳かそこらで天に召されていった母を恨んだ時期も、一時とはいえたしかにあった。
嘆き、ときに憤りを覚えたこともある。
何故これほど早く逝かなければならなかったのか。
まだまだ頼りない子供の自分を置いてよく死ねるものだと。
行き場のない怒りを涙に変えて、棺桶にすがりつきながら泣き続けた。
愛を失い悲しむことが、生ける者たちが感じる心のあるべき姿、摂理であるはずだ。
それなのに、翔吾はもはやなにを感じることも、感じ取ることも出来なくなっている。
母と引き離されたことにさえ、気づいていないのか。
やはりもう、常人にはどうすることもできないところまで彼の心は痛み、荒み、狂い、崩れ、鎮まり、いつしか悲しむという感情さえ忘れてしまったのか。
(翔君……)
心が震え、泣いた。
翔吾の抱える闇に、いま、自分ははじめて触れたと思った。
彼を覆っている黒くて重い息苦しいまでの空気。それが意味するものすべてを泉は理解した。
胸が、押しつぶされそうだった。
立っているのがやっとで、ビニール袋の持ち手を強く強く握り込む。
「田舎だろうと都会だろうと、残酷な現実はどこに行っても落ちてるものね」
「……」
言葉にならなかった。
認めたくない。
しかし今日(こんにち)、あたりまえのように転がっている影の現実。
誰よりも己を理解し、愛してくれるはずの母という存在が、必ずしもそうではないのだと見せつけられた気分だった。
醜悪女のタバコの残香がよみがえり、顔が歪む。
爪が食い込むほどに強く拳を握りしめ、いますぐ追い着いて殴り気絶させてやりたい衝動を泉は必死に堪えた。