キミは聞こえる
 ちょっととは、まだなにか話すことがあるのか。

 電話が鳴った瞬間、「じゃあ私はこれで」という言葉が即座に頭に浮かんだが、それを声にするより一呼吸分早く、矢吹母に先を越されてしまった。

 うなだれながらも、電話に耳を傾ける矢吹母に、お気になさらず、という意味でまぶたを伏せ、ふたたびグラウンドに視線を戻す。

 練習が再開したようだ。

 先ほどまで着けていなかったビブスをユニフォームの上に重ねている。試合が始まるのだろう。

「……行ったの? それで、どうだった。話は出来たの? 出来なかった? えっ、また家を留守にしてたの? 居留守じゃなかったの? ちゃんとしぶとく粘った?」

 電話のコールを絶った次の瞬間、突如として矢吹母の口調が泉に向けられていたそれと180度変わった。

 厳しい物言いにいささかたじろぐ男の弱々しい声が携帯電話から漏れてくる。

「そう、やられたわね……今日は上川さん、仕事は休みのはずだからきっと帰ってこないわね。明後日、出直しましょう。私も行くわ」

 額に手を当て、眉間に苦々しいシワを刻みながら唸るように矢吹母はそう言うと電話を切った。

「ごめんなさいね、なにを話していたんだったかしら……ああそうそう、子供が好きかどうか―――」
「あ、あのすいません。いまの、上川ってもしかして"あの"上川さんですか」

 聞き間違いでなければ、彼女はいま、確かに上川と発音した。
 
 アパートの名前と彼らの住まう家の号数を告げると、矢吹母はそれまでの朗らかな笑みを消し、いささか怪訝そうな顔をした。

「代谷さんが何故上川さんのことを……?」
「あのアパートの大家が、私がお世話になっている代谷家のご家族であることと、風の噂で耳にしました」

 まさか現地に行って直に確認してきたとは言えない。

 もっともらしい言い訳を繕うと、そうだったわね、と矢吹母は納得したように呟いた。

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