黒猫前奏曲
道成の存在は全く無視されており、未だに道成の隣りに置いてあるマリアの鞄を掴み、ワゴン車の後部座席の扉を開けた。

「お前…そういえば、いたんだったな」

高沢も道成の存在にやっと気づいたらしく、マリアを後部座席に乗せ、阿久津から受け取ったバスタオルをマリアの頭の上に置くと道成の方へ振り向いた。

「……ありがとな」

まさか高沢からお礼の言葉が貰えるとは思わず、道成は驚きで目を見開いた。
しかし高沢の礼は、マリアを見ていてくれたことなのか、マリアの代わりに電話に出たことなのか、高沢たちが来るまで一緒にいてくれたかのか、マリアの鞄を持ってきてくれたのか、車のドアを開けたことなのか――考え出したらきりがなく、「はい」と曖昧 な返事を返すことしかできなかった。不器用同士の会話に、阿久津は笑っていた。

「道成だっけ?今日はマリアのことありがとう。本当に助かったよ。今度、『キャッツ』においで。高沢さんがきっと何かおごってくれるはずだから」

ねぇ高沢さん?、と茶目っけたっぷりに高沢に言うと、高沢は、あぁ、と短い返事を返すのみだった。

道成は高沢にマリアの鞄を渡し、

「今度伺います」

と、一礼しそのままプレハブまで、傘も差さずに走り出した。

あんなに大粒だった雨は、今はもう全て地面に落ちてしまったのか、上からは何も降ってこなかった。

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