グッバイ・マザー
 食後、父が沸かしてくれた風呂に入った。自分の家の風呂に入るのは随分久しぶりに感じた。ゆっくりと足を伸ばし、柔らかな湯の感触を楽しむ。
 「タオル、ここに置いておくね。」
 姉の声がガラス戸越しに聞こえた。
「ありがとう。姉貴。」
 凛として、高く澄んだ姉の声。生まれた時から聞いてきた、僕にとっては心地よい声だ。
 僕の姉は近所でも評判の美人で、頭も良く、両親の自慢だった。その姉に対して、僕がコンプレックスを抱いていたのは言うまでもない。
 母が癌だと分かった時、彼女は受験生だった。だからといって彼女は受験勉強の手を抜くこともなく、高校から帰って来ては家事をそつなくこなし、合間をみては母の見舞いに駆け付けた。その時の姉の睡眠時間は三時間程だったと思う。
 母は明らかに僕より姉の方を可愛がっていたが、それは仕方のない事だったのかもしれない。姉は両親からの愛情と引き換えに自分の感情を捨てた。僕は感情と引き換えに愛情を捨てたのだ。
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