かえりみち
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「え~?!」

指揮者・井上の声が、病院のエントランスホール全体に響き渡る。

へ~、このホール、反響がいいなぁ。
・・・って感心してる場合じゃなくて。
井上さん、ちょっと声がでかすぎますよ。

「まぁちょっと、聞いてくださいよ」

安川は、向かいのソファにふんぞり返って座っている指揮者・井上をなんとか説得しようとしていた。
親友のたっての願いを、なんとかかなえてあげたい。

「島田が惚れ込んだチェリストでして、僕も音楽院で少し教えていたのですが、確かに素晴らしいんです。井上さんも是非一度聞いてみてほしいんですが・・・」
本当に、葛西卓也は素晴らしいのだ。
・・・弾くことさえできれば。

「名前は?」

「葛西卓也です」

「葛西卓也~?!」
また、指揮者・井上の声が響く。

「・・・って、誰?どんな人。賞歴は」

「それはですね・・・」
安川の目が泳いだ。

賞歴・・・。
面食いの井上が、気にしそうなところだ。
正直な話、クラシック音楽の世界では、賞歴がものを言うことが多い。
そこを突かれると、痛いんだよなぁ。

葛西卓也のプロフィール。
国立高伊音楽院、中退。
現在無職、住所不定。
以上だもんな。

「あ」
安川が、指揮者・井上の後ろを指差す。
そこに、ぽかんと突っ立っている卓也。
突然自分の名前が叫ばれたこの状況を、よく飲み込めないでいる。

「え?」





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