かえりみち
一人になった卓也は、また空を見上げた。
あぁ、参ったな。
命の恩人の、ユリとの約束だ。
破るわけにはいかない。
これでいよいよ、誰にも気づかれずにこの世界から姿を消すなんて事ができなくなった。
考えていることとは対照的に、空を見上げる卓也の顔は、爽やかな表情。
いや、そもそも生れた瞬間から、そんな事はきっと、誰にもできないことなんだね。
お父さんの心の中でも、お母さんの心の中でも、僕は生き続けていた。
ユリの心の中でも。
病室の窓が開いて、テディベアが手を振るのが見えた。
卓也の顔から、思わず笑みがこぼれた。
バカなユリ。
ユリは自分のことを全然分かってないよ。
ユリほどかわいくて、優しくて賢くて頑張り屋で、それなのに一緒にいるだけで陽だまりの中にいるみたいに暖かいと思える人は、いないよ。
君ならば、君がそう望むだけで優しくて賢い王子様と、愛にあふれる安定した一生を送ることができるだろう。
君に似合うのは、傲慢ちきのエロギツネなんかじゃないし、おつむの弱いチェリストのなり損ないでもない。
でも、君の心を変えることは、僕にはできない。
だから。
卓也は、静かにチェロの弦に弓をのせた。
君を幸せにするために僕にできることは、これしかない。
君が「幸せ」と言うことを一生懸命するだけだ。
「The Lady of the Dawn」の穏やかなメロディーが、空に舞い昇っていく。
それとともに、まぶしすぎた日差しが一気に和らぎ、広場に優しく降り注いだ。
吹く風も、伴奏のようにメロディーにそっと寄り添う。
人々は足を止め、演奏に聞き入る。
それはまるで、一枚の風景画のような世界。