かえりみち
「葛西卓也は、対人恐怖症でね。人前では決して、チェロを弾かない」
キャンパスのあちらこちらから聞こえてくる、学生たちの楽器やおしゃべりの音の間を縫うように歩きながら、安川は葛西卓也のことを説明した。
「なんでここに入れたんだ?」
幸一は怪訝そうな表情を浮かべる。
「ここの近くに、阿南敬介の楽器工房があったろう?今は閉まってるけど。そこで雇われてたところを、偶然ここの教授に見出されたっていう話だ。だけどこの三年、彼がチェロを弾く姿を見せたことは一度もない」
「そんな学生を、よく置いてたな」
大柄の安川が早足で歩くから、話が聞こえる程度の距離を保つには小走りに近いスピードで歩かざるを得ない。
幸一は息が切れそうになるが、この話を聞き逃すわけにはいかない。
幸一も夢中でついていく。
「まあ、大先生のお墨付きということもあってね、特別扱いだったんだ。だけど、その教授が半年前に引退してから、学生の不満が爆発して……ここだけの話だけど、彼、誰かに胸を刺されて、もう少しで死ぬ所だったんだ。」
「刺された?!」
自分でも驚くほど、すっとんきょうな声が出た。
でもそれに構っている暇はない。
あの子、そんなことがあったのか。
「で、もう特別待遇はできないってことになって。退学は時間の問題だよ。あれほど弾けるのに、もったいない。」
「あれほどって。」
安川が突然立ち止まった。
「これが彼のチェロだよ。」
いつの間にか喧騒は去り、二人の目の前に古い木造の校舎が静かにたたずんでいる。
幸一ははっとして宙を見上げた。
校舎の中から、チェロのメロディが聞こえてくる。