アリスズ

 花さかジジィを、しに来たのね。

 梅は、ようやく自分の肺を痛めない程度の微笑みで、止められるようになった。

 ゆっくりと呼吸を取り戻しながら、行商人を見る。

「あれは…魔法…ですよね?」

 だが。

 笑いごとと思っていないのは、行商人の方だった。

 その慎重な唇から出てくる言葉に、エンチェルクも驚いている。

 ああ、そうだったわね。

 この国は、魔法はイデアメリトスの独占なのだ。

 北に少数残ってはいるらしいが、彼らは中寒季地帯まで来ることは許されていない。

 寒季地帯以北にしか、住めないのである。

 永遠の冬から抜け出してきた者が、いたのだろうか。

 それとも──

「菊は魔法は使えませんよ…魔法がもしあったとしたら、その花の方かもしれませんね」

 話を聞けば聞くほど、梅の脳裏には桜の花が広がってゆく。

 もし、彼女の想像が正しいとするならば、可能性はひとつだけある。

 この世界に来た時に抱えていた桜の苗。

 いろいろなことがありすぎて、すっかり忘れていたが、あれを景子が草原に残してきたとしたら。

 一緒に、世界を越えてきた桜だ。

 どんな不思議を起こしても、おかしくはなかった。

「魔法…領域ですか…」

 男は、小さく呟いた。

 梅にとっても、一度だけ本で読んだことがあるその言葉。

「花を咲かせた後…菊はどこへ向かったのですか?」

 もし、梅に会いに来る気があるのならば、もう到着していてもおかしくはない。

「南へ…」

「連れと一緒に?」

「はい」

 そう。

 梅は、目を伏せた。

 都に向かっていた足を戻し、わざわざ桜を咲かせ、また南へ。

 まるで、桜を見に来たかのようだ。

 いや。

 連れに、それを見せにきたかのような。

 会ってみたかったわね。

 梅は、少し残念に思った。
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