アリスズ
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 部下は、先に支部へと向かわせた。

 ダイは、黙ってキクについて歩く。

 ヤマモト・キク。

 最初の別れの時、彼女は自分のフルネームを語ったのだ。

 短い名前だった。

 この国の名前の形と、それは明らかに違う。

 だが、名乗る彼女の唇には、誇りがあった。

 だからこそ、長い間会わなくても、ダイの意識にはその名がしっかり刻まれていたのだ。

 刻まれてはいるが──呼んだことはない。

 人の名を呼ぶのは、この国ではいろいろ難しい。

 都に出てからはなおのこと、ダイは人の名を呼ばなくなった。

 田舎にはほとんどなかった、たくさんの上下の壁が、彼をそうさせたのだ。

 さして、親しい付き合いをする者もいなかった。

 頂点にいるのが、イデアメリトスの君。

 それだけを、覚えていればいい。

 そんな大きな線だけ引いて、物を考えるようにしたのである。

 隣を歩くキクを見る。

 共に歩くと、彼女の方から心地のよい風が吹いてくる気がする。

 そんなキクにのみ、意識を取られているワケには、いかなかった。

 ダイの耳に、微かに何かが届いてきたからだ。

「あぁ…やってるな」

 彼女は、風に乗って届くその音を、目で見るかのように視線を上げる。

 一歩進むごとに、少しずつはっきりしていくその音は。

 静かな、歌だった。

「昨日から、下町の広場で歌っている」

 細い路地に入って。

 そして。

 抜けた。

 大勢の民が、そこにいた。

 思い思いに好きなように、座っていたり立っていたり。

 それでも、広場は足の踏み場もないほどだ。

 だが、静かだ。

 中心で歌う男の声が、余りに静かなため、それを決して邪魔しないように、誰もおしゃべりなどしていない。

 ただ、歌声に耳を傾けている。

 そして──そこにいるみなの表情は、穏やかでにこやかだった。
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