異常人 T橋和則物語
「あの……コップが…空だ。水がない。ウォーター…ウォーター」和則がどもりはじめ、いつものパラノイアじみたひとりごとが始まった。
 セロンは冷静さを失いかけていた。「そりゃあそうだろ!あんたが呑みほしたんだ!」とどなった。「だから……俺が汲んできてやるっていってるだろ!…」
「もちろん。水がない。コップは空だ。水、水、ウォーター、ウオーター」
 和則の頭の中で、なにかがこわれた。お利口なセロンが恥をかこうとしている。和則の発作で、セロンが恥をかく。やめてくれ! セロンは憤慨するより、恐れた。東京で罠にかかって、もう金もほとんどない。ミッシェルは愛想つかして出ていってしまった。セロンに残されたのは、魚田みすずことクレイジー和則だけだ。しかも、また発作が始まった。くそったれめ! セロン・カミュは舌打ちした。
「……もちろん。水がない。コップは空だ…」
 和則は今にも爆発して、粉々になりそうだ。
 セロンは和則に憎しみを、はげしい憎しみを抱き、自分が人生のなかで遭遇したさまざまな不幸や、和則の発作に憤りを覚えた。憤りというより怒りだ。激怒だ。すべての責任はセロンが負い、和則は狂っても公衆で糞たれてもなんの責任も負わなくていいのだ。とくに和則を憎いと思ったのは、可愛い美少女に変身したのに、セロンのベットの相手もしないことだ。しかも、また「ウォーター」などといって、狂ってしまった。
 セロンはテーブルごしに手を伸ばすと、和則の手を乱暴につかんで、きつく締めつけ、和則の耳にしか聞こえない、かすれた、低い声でささやいた。
「みんなが見ている、わかるか? 変なやつだという顔でな! さぁ、とっとと……黙りやがれ! …いいか!」
 和則はぴたっと呟きをやめた。セロンはほっと息をついた。救われた思いだった。まるで、砂漠の中でオアシスをみつけたように安堵した。もう発作はやめてくれ! セロンはそう思った。
  次の日の早朝、自分の部屋の和則は「看護婦さ~ん!看護婦さ~ん!」と変な声でよんでいた。しかし、すぐにかけつけて介護してくれる看護婦さんはどこにもいない。知らないやつがいるだけだ。しかも、日本人じゃない白人野郎が。
 
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