龍馬! ~日本を今一度洗濯いたし候~
麟太郎の咸臨丸艦長としての業績は、まったく認められなかった。そのかわり軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。
友五郎は勝より年上で、その測量技術には唸るものがあったという。
彼は次々と出世をしていく。
一方、勝麟太郎は反対に、”窓際”に追いやられていった。海軍操練所教授方頭取を免
職となり、六月二十四日に天守番之頭過人、番書調所頭取介を命じられた。
過人とは、非常勤の意味だという。麟太郎はこの後二年間、海軍と無縁で過ごした。
左遷先には有名な学者もいたが、麟太郎にはそんな仕事は退屈きわまりない。朝に出勤すると仕事は部下にまかせ、日当たりのいいところで”ごろ寝”ばかりして過ごした。 ……幕府は腐りきっている。
いつしか、そんな感情を、勝麟太郎(勝海舟)はもつようになっていった。
当時は、目付役が諸役所を見回り、役人の勤怠を監視していた。そして、麟太郎の行状 とが
を見咎め、若年寄に報告したという。
「勝はいつ出向いても、肩衣もとらず寝転んで、全く仕事をいたしておりませぬ」
若年寄は、それを老中に上進し、勝海舟は役職を失いかけない立場にたった。
彼を支援してくれていた開明派の官僚は、井伊大老の暗殺以降みんな失脚していた。
麟太郎は、閑職にいる間に、赤坂元氷川下の屋敷で『まがきのいばら』という論文を執筆した。つまり広言できない事情を書いた論文である。
内容は自分が生まれた文政六年(一八二三)から万延元年(一八六〇)までの三十七年間の世情の変遷を、史料を調べてまとめたものであるという。
アメリカを見て、肌で自由というものを感じ、体験してきた勝海舟ならではの論文である。