愚者
「何があったの?」
 カーテン越しに尋ねて来る保険医に、葵は上手く答える事が出来ずに沈黙していると、保険医は、それ以上は尋ね様とはせず沈黙が流れる。葵は、天井を見上げていると視界が霞むのが分かる。涙が頬を伝い枕を濡らす。押し寄せる恐怖に耐えていると、カチコチと、静かな保健室の部屋に秒針が時を刻む音が響く。身体の震えは徐々に収まって来たが、矢張り、気持は沈んだ侭だ。そうこうして要る間に、保険医が「制服乾いたわよ」とカーテンを捲り、優しい笑顔で葵に接して来る。今この状態での優しい対応は、葵の心を大きく揺さぶる。この学校に来て以来、本当に酷い眼にばかり合っている葵は、自然と溢れ出す涙を堪える事が出来ずに布団を頭迄被り啜り泣く。
「なにか、あったのね?」
「……大丈夫です」
 本来なら強がる必要は無い。だが、母の事を考えると事態を表に出したく無い思いの方が強い。布団の端で涙を拭い、ベッドから抜け出して保険医が手に持っている制服を受け取り、ストーブで温められている制服を着ると、葵は深々と頭を下げて鞄を手に持ち保健室を出る。今保険医の優しさに甘えると、自分が決めた決意に負けそうな気がする。それに小夜子の事も気に成る。保健室から出ると、葵は一目散に下駄箱に行き、靴を履き替えて校庭に出る。
―まだ大丈夫かな?
 葵は手渡された紙を手に握り締め、恐怖で竦んだ身体を引き摺る様に学校を後にした。

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