愚者
青年が不安な表情を浮かべて背後を見る。ハッタリだ。私は全身全霊を賭けて走り出す。革靴が乾いた音を響かせる。後ろを振り返る暇は無い。十メートル。二十メートル。青年との距離が開く程に、徐々に身体が汗ばんで来る。どれだけ走ったのだろう。私は路地裏へと駆け抜け安堵の溜め息を漏らすと、直ぐに肺が潰れる様に痛み、軽い眩暈がする。
「年は、取りたくない物だ……」
 ポツリと空を見上げて呟く。今年で年齢は四十六歳に成る。全力で走れば息が上がるのは当たり前だ。上手く撒けたのだろうか。腕時計を見ると数十分は時間が経過している。危険な状態は回避出来たが、代償として口の中に酸っぱい味が広がり胃液が込み上げて来る。食事の後に走ったからだろう。胃の中がシェイクされ吐き気を覚える。
「大丈夫だ……」
 ふら付く足に力を入れて立ち上がると、風が身体を優しく撫でる。
「大丈夫、だ……」 
 同じ言葉を繰り返し、街灯が照らし出す道に戻り歩き出す。不安が無い訳では無い。だが、何時迄も蹲っていても意味が無い事は分かっている。私は買い物袋を手に握り締め、人気を避ける様に道の端を選び自宅へと帰る事にした。
< 2 / 374 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop