短編小説集
「ちょっと、ごめん」
引き留める声が聞こえた気がしたが、それどころではない
私は走ってカフェを出た
道路を挟んで向こう側に公園があり、そこに大きな桜の木があるのだ
彼と別れたのも、この場所だった
車が途切れるのを待って、道路を横切る
公園に足を踏み入れたときには既に、あの背中は見当たらなくなっていた
急に、熱が冷めた
あれが彼だと言う確証はないじゃないか
彼だったとして、今さら会ってどうする気だったのだろう
溜め息を一つ溢して、ゆっくり桜に歩み寄る
見上げた瞬間、風が強く吹いて花びらが舞った
顔にかかる髪を押さえ、そっと、幹に触れる
あれ以来、この場所を避けていた
大好きだったはずのこの場所を避けていた
久しぶりに触れる幹はヒンヤリしていて、懐かしい感触
「久しぶり」
懐かしい声
振り返ればそこには懐かしい笑顔
恥ずかしそうに笑いながら、彼はそこにいた
「なんで」
「ん?」
「なんで、いるの」
だって、彼はこの町を離れたはず
子供だった私たちに選択肢はなくて、ただそのまま別れた
「帰ってきちゃった。こっちで就職したんだ」
照れたときに鼻を触る癖は、どうやら直っていないらしい
お互いに大人になったけれど、彼は変わらず、彼だった
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