軌跡
アパートに着いたのは、五時半を少し回った頃だった。優はさっそく夕飯の準備に取り掛かり、睦也はのろのろとハードケースからベースを取り出した。きっちりとチューニングをし、左側にミニコンポ、右側に小さなベースアンプを設置し、その中心に腰を下ろした。そして小さくボリュームのつまみを回す。ここはリハーサルスタジオでも、ライブハウスでもない。心臓を揺らすような爆音は鳴らせないのだ。もしそんなことをしたら、上下左右の住人が一斉に押しかけてきて、アッと言う間に追い出されてしまう。いや、この木造ボロアパートでは、振動で崩れてしまうかもしれない。出せるのは、蚊の羽音くらいの音量だ。気乗りしないが、文句ばかりでは始まらない、自分で決めたことだ、そう言い聞かせ、渋々練習を始めた。