淡い記憶
 後ろの方で自分を呼んだ気がして振り返ったが、姿が見えない。

岸から遠くまだ砕けていない低い波がたっているだけなのに、
周りに何があるのかもわからない。

クラブの者でも、小原陽一郎のことを「ヨウ」と呼ぶのは青木だけで、
関係ない他人の会話の端に聞こえる「よう」という言葉に反応してしまうことが、
しばしばあった。

また、それなのかもしれないと思い、空を見上げた。

 背泳ぎで空を見ると、水面の下にある耳は、波の中の音だけを拾い、
太陽の光は、閉じた目蓋を通して赤い色を感じさせた。

息を吐き、膝を抱えて胎児のように丸くなると、
体は浮力を失い自然と沈んで行く。目を閉じ、
息の続く限りその体勢を保って、漂うのが心地よく、
平泳ぎ選手で水泳部でも一番の息の長さの持つ陽一郎は2分ほど水中を、
丸く沈んで行き、耳の奥が限界を知らせると、
死んでいた魚が生き返ったように、体を解き上を目指した。

「陽!」  

青木がクロールで陽一郎を見つけて、近寄ってきた。

「探したぞ。こんなところに居たのか、バイクが来たんだ。危ないぞ、早く逃げないと!」

 さっき聞いた青木の声は、幻ではなく。
自分を探していた声だった。
午前中には、いなかった水上バイクが、二台ほど、近距離を走って行く。
あちらも、こんな沖まで人がいるのを少し驚いたように見つけては去っていく。
慌てて、競争のようにクロールで岸を目指す。
さすがに、青木は速い。  

岸に着いてみると、午前中より人も増えて、
家族連れもカラフルに点々と陣地を獲得している。
沖で沈んだり浮いたりしていただけで、二時間が過ぎていたことに驚いた。

 昼食を食べ、午後も泳いだ。地上に上がると体は重いのだが、
一旦水に入ると2人ともどんどん泳いでしまって、
よくわからないうちに時間がたってしまっているので、
「え、もうこんな時間?」というのを何度も言った。 

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