それから一年後。天下統一を成し遂げた英雄豊臣秀吉が、六歳の秀頼を遺し六十二歳で死没した。後継者秀頼の下豊臣家の天下を維持していこうとする石田三成派と、豊臣家に代わって権勢を握らんと狙う徳川家康派が対立。慶長五(一六00)年九月十五日。両派は美濃関ヶ原に於いて激突した。三成を謀主とする豊臣政府軍は、五十九歳の奸雄家康を首領に戴く東軍に敗れ去ったのである。
 与次郎が関ヶ原の戦報を耳にしたのは、九月十五日だった。話によれば島左近は壮烈な戦死を遂げ、三成は戦場を離脱し行方不明になっているという。
 江州に進駐した三河岡崎城主田中吉政五十三歳の軍兵が、告示を触れて回っている。内容は以下の通りである。
「村を挙げて三成を捕縛した折には、村の年貢を永久免除する。三成を討伐した際は、その武功者に黄金百枚を下賜する。三成逃亡を幇助(ほうじょ)した者は、その者の親族、居住している村の住人全てを処刑する」
 古橋村村民は田中軍を憚って口外しなかったが、
「命の恩人」
 三成の不運を嘆き、三成の無事を誰もが願っていた。
 九月十八日夜半。法華寺三珠院の戸を叩く人影があった。善蓬は、
(もしや)
 と直感し、寝間着姿のまま徐(おもむろ)に戸を開けた。目前に土民の装束を纏(まと)った男性が現れた。怒髪で髭は伸び放題、よろけそうな細身の三成が、杖をついて辛うじて佇立(ちょりつ)していた。
「どうぞ」
 善蓬は三成を中へ誘った。三成は、
「すまぬ」
 と一声するや、崩れるように土間に入った。法華寺には三成の母の墓があり、過分の布施を受けている。善蓬は無碍(むげ)にできない。
「一夜の宿を所望したい」
「宜しゅう御座います」
 善蓬は即答した。内心は、
(これでわしも終りか)
 と背筋が凍(こご)えている。桶に水を汲んで泥塗れの三成の足を洗った。三成は囲炉裏端に着座し、善蓬の差し出した水を一服した。
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