剣と日輪
「お痩(や)せになったんじゃない?」
「親爺の厳命でね、高等文官試験を受けなきゃならないからね。学生とは言え、結構忙しくて」
「あら。お体お大事にね」
「有難う」
 忘れもしない。邦子が祝言(しゅうげん)を挙げた端午(たんご)の節句(せっく)の夜分(やぶん)、公威は夜魄(やはく)に堪(た)えかねて酒場へと夜行し、よいどれたほろ苦い憶想(おくそう)がある。奥方とは判然としない、バケツを抱えた邦子の清冽(せいれつ)な体貌(たいぼう)に、公威は、
(俺は人生を間違えたかな)
 と胸底で悔恨(かいこん)している。
「どんな小説読んでる?」
「谷崎潤一郎なんかを」
「そう。やっと僕の知ってる小説家の名が出てきたね」
「ほほ。成長したのかしら」
「小説なんて、大したもんじゃないさ」
「そうかしらねぇ」
 邦子は公威が、
「三島由紀夫」
 という学生作家であるとは、露知らない。曲り角にさしかかると、
「家はこの突き当たりにあるの」
 と足並みを止めた。バケツの中身が梅雨の晴れ間の日差しを照り返している。
(蒟蒻(こんにゃく)か)
 蒟蒻の肌合から、公威は邦子の気節を突き付けられている。
「早く帰宅した方がいいね」
「そうなの。蒟蒻が腐らぬ内に。主婦でしょう?」
 邦子は、笑語している。
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