剣と日輪
仮面の告白編別れ
 九月とは言え、暑気(しょき)が厳(げん)切(せつ)であった。
「ああ、美味(おい)しい」
 邦子はオレンジジュースに、渇した唇頭(しんとう)を濡らしている。公威もコカコーラを、ストローを使わずにがぶ飲みした。エアコンは回っているが、大して効いていない。
 公威と邦子は去年の奇遇以後、月に一度程の頻度(ひんど)で逢瀬(おうせ)を楽(らく)只(し)している。両人は再々、
「金のにわとり」
 なるレストランを利用している。
 公威が、
「大蔵省に辞表を提出した」
 と報告すると、邦子は、
「呆れた。これからどうやって生きていくの?この不景気な時世に」
 と小首を傾げている。
(この人は、気でも違ったのかしら)
 邦子の漆黒(しっこく)の眸(ぼう)子(し)は、不自然に瞬(まばた)いている。
「これからは、筆一本で生きていく」
「筆一本?大丈夫なの?」
「分からない。野垂死(のたれじに)するとも構わないさ」
「御立派ね」
 邦子は夫君(ふくん)の永井邦夫が、捕虜(ほりょ)虐待(ぎゃくたい)容疑(ようぎ)で連合国に身柄を拘束(こうそく)されていた、昭和二十一年末から二十二年暮(くれ)の時(じ)機(き)に文に認(したた)めた言(げん)志(し)を懐古(かいこ)した。
 永井は香港に於いて拘留(こうりゅう)され、戦争犯罪人という汚名を着せられかかっていた。永井は、処刑を予想していたのだろう。

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