剣と日輪
憂国編結婚
 公威が二回目の外遊に旅立ったのは、昭和三十二年七月九日だった。中米、北米を周遊し、十月から大晦日(おおみそか)迄ニューヨークに滞在した。十二月二十一日週末の夜半公威は、元海軍少尉で二歳年長の銀行マン兼作家、吉田満と、ウエストサイドのプチバー、
「メリーズ」
 の片隅(かたすみ)で快飲(かいいん)していた。
 公威は酒に弱い。ビール一杯で酔い潰れてしまう。戦艦大和から奇跡的に生還した強運の持主吉田は酔うと、
「同期の桜」
 を唄うのが常であるが、マンハッタンの居酒屋で唱曲(しょうきょく)するのは憚(はばか)られた。
 ビール半杯でしまらない外貌(がいぼう)になっている公威は、ニューヨーカーで、
「合衆国最初の職業小説家」
 ワシントン・アーヴィングの旧宅を昼間見学した話題を持ち出した。
「未だ見ぬ俺の家も、死後ああやって公開されるかな」
「君も家を建てるのかい?」
「ええ。結婚したら、何れ親と別々に住むでしょうから」
「結婚したら、か。結婚する相手いるの?確か前四十までは結婚せずに、作家活動に専心(せんしん)するって言ってなかった?」
 吉田は温容(おんよう)ながら、擬孤(ぎこ)している。公威はビールを喉(のど)に流し込むと、
「あれは若気の至り。僕は今回半年も外国暮しをしてみて、つくづく人間は一人では生きられないって痛感した。どんな国にも家族がいる。人間生活の基本はどんな異郷に行っても、家庭だった。僕の四十云々(うんぬん)といった人工的な主唱(しゅしょう)は、エトランゼの孤(こ)愁(しゅう)に捻(ひね)り潰(つぶ)された。独り身の愚見(ぐけん)に過ぎなかったんです、あれは。吉田さん」
 公威はとろんとした双眸(そうぼう)で、上半身を乗り出した。
「僕は来年夫になる。必ずね」
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