剣と日輪
春の雪編ビクトリア
 森田必勝は敗戦間近の昭和二十年七月二十五日、三重県四日市市大治田(おおばた)に、内部(うつべ)小学校校長の父和吉四十六歳と、女学校に代用教員として勤めていたたま四十歳の次男として生を受けた。長女富士子とは二十も年がかけ離れており、長男治とも十六、次女高根とは十一、三女妙子と九つ年齢差がある。一番下の子だった。
 四日市は当時、空襲警報の音響に連夜苛(さいな)まれていた。暗澹(あんたん)真只中の生誕であった。必勝の半生は、そのまま戦後日本の辿った曲りくねった苦困(くこん)の路程(ろてい)である。両親は昭和二十三年に相次いで病死。必勝に親の記憶は、残り香程も無い。 
 長女富士子は嫁に出ていた。十四歳の次女高根が母親代わりとなって三歳児である必勝の世話をし、十九の長男治が家長として、行商によって辛うじて飢えを凌いでいた。翌年治は南中学校英語教諭に採用され、森田家の家計には春が見えてきたのである。
 必勝は不幸な生立ちにも関らず、明るく素直な健康体を手に入れていた。これは治の兄弟愛によるところが大きい。母代わりとなった次女高根、三女妙子等の母性愛の成果であろう。必勝は兄姉に育てられたも同然だった。四十代で五人の子を残して幽界へ旅立たざるを得なかった和吉、たま夫妻は、何よりも幼児だった必勝が心残りであったろうが、治達が親の務めを肩代わりしてくれたのである。草葉の陰で胸を撫で下ろしたに違いなかった。
 必勝は中学、高校生活をエスコラピオス修道会が運営する私立男子校海星で送った。カトリック教徒である治夫婦が、そう志望したからであった。必勝は、
「まさかっちゃん」
「まかやん」
 というニックネームで親しまれ、クラスの人気者だった。人と接するのが大好きで、抜群の行動力を保持していた。高校時代に仲間と九州、北海道を貧乏旅行し、柔道で五体を鍛え抜いた。そしてやや漠然とではあるが、
「政治家」
 を志すようになり、二浪の末に早稲田大学入学を果たしたのであった。必勝が早稲田に固執したのは、彼が自民党代議士の河野(こうの)一郎のファンで、河野が早大政経学部の卒業生だったからである。
 
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