剣と日輪
花ざりの森編仔犬のワルツ
 蒸し暑い夏日(かじつ)だった。公威はとある木造三階建ての華館で、学友と交遊していた。海外赴任中の外交官である父親が建立した、三谷宅の宅地面積は三百坪もあり、敷地内に一歩足を踏み入れると、フランス帰りの華奢(きゃしゃ)な雰囲気に呑み込まれてしまう。公威は、
(家とは大違いだな)
 と六十坪の貸家であるマイホームを、自嘲せずにおれない。
(思い返してみれば華族でもなく富豪でもない平岡家の者が、入るような学校ではなかったのだ、学習院は)
 公威は級友の御宅を訪れる度に、平岡家の分不相応さを実感していた。その平民の子が華族や士族の子弟を凌(しの)いで首席で卒業し、東京帝大への推薦入学を勝ち取ったのは、意地であろうか。
 平岡家の血筋は一筋縄ではいかない。父方の系譜(けいふ)は世々(よよ)播磨の農家であったが、定太郎が時雲に乗って晩年は失墜したとはいえ樺太庁長官にまで立身したので、祖母奈(な)従(つ)の実家永井家は若年寄も務めた旗本の家柄だった。奈従の母高(たか)は水戸徳川家の支藩宍戸松平家の妾腹(しょうふく)ではあるが姫君で、母倭文重の橘家は加賀前田家の漢学者であった。
 血統から言えば平岡家は、学習院に令息を通わせている名家に比して遜色はなかったが、現実には無爵位の借家住いの平民なのである。公威の学習院入学は、昭和十四年に病死した祖母奈従の意向に沿ったものだった。公威は華族や士族の坊ちゃん連中からしょっちゅう苛(いじ)められたが、長ずるに及んで公威の学才と文藻(ぶんそう)が一目置かれ、今ではリーダー的存在となっている。家格の負目は払拭されているかの様であるが、
「家柄コンプレックス」
 は生涯公威の根底に横たわっていた。
 三谷信は、特別幹部候補生として今秋入軍する。公威の同級生達の内応召予定者は殆どが特別幹部候補生に志願して、十月に軍に入る。ところが卒業生五十一名中トップの公威は、兵隊として戦野へ赴く覚悟をしていた。
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