剣と日輪
奔馬編反革命宣言
 年末の一日、楯の会隊員が平岡邸に会合した。山本一佐も招待されていた。楯の会結成初年度の総括と、昭和四十四年計画の中身を話し合う筈だった。会議といっても楯の会の制服を着用した隊員は皆リラックスし、飲食物に腹を満たしながらの、忘年会も兼ねた小パーティーといったものである。ホテルのロビーの様な一階のフロアーで、それらは談議された。そして新年度の以下の様な立案が、なされたのだった。

一、
別に毎週一回面会日を定め、三島自ら会員たちと逐次面接し、懇談する。
一、
これによってレギュラー隊員を掌握しつつ、第三期生増加後、七名グループ三箇をもって一隊を編成し、百名の隊員を四隊と予備の直轄グループに分け、本部には自衛隊の幕僚組織に準じた執行部を編成し、随時動員して部隊行動ができるような体制を創り上げる。
一、
この間、好機をとらえて、山本の指導による訓練を継続する。
一、
百名の会員結成後は、富士においてリフレッシャー(訓練の維持向上のための再教育)コースを開設する。
一、
これらの活動を通じて、軍人精神の涵養(かんよう)、軍事知識の体得、軍事技術の練磨の三つのスローガンを徹底させ、楯の会結成一周年の記念行事を四十四年九月または十一月に実施したい。
(自衛隊「影の部隊」三島由紀夫を殺した真実の告白より)

 山本一佐はこの会議の直前、公威から自衛隊退官者で、実業界に転身した或る隊友会会員と引き合わされていた。彼を公威は、
「この方は会の体育訓練等で、今後尽力を仰ぐ人です」
 と紹介した。彼を交えた三人の席で、公威は、
「今後の会の発展を願い、警備保障会社との親交を深め、彼等のガード技術の修得が必要だとの認識に達した」
 と力説した。
「私は既に連携計画の相手を、初代内閣調査室長を務めた村井順氏が二年前に創立した、綜合警備保障株式会社に決めた。あそこには旧陸軍出身の軍人が多数在籍している。生きたガード技術が学べる」
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