剣と日輪
花ざかりの森編遺言
 十一月十七日待ちに待った、
「花ざかりの森」
 が世上に出陳(しゅっちん)された。売れ行きは好調で、一週間で四千部が巷間(こうかん)に流れて行った。戦災に怯え、長引く耐久生活に辟易(へきえき)していた青人(あおひと)草(ぐさ)に、
「花ざかりの森」
 は一服の清涼剤として迎え入れられたのである。
 公威は、一冊につき五十銭の印税を報酬として受けた。公威が人世(じんせい)で初めて稼いだ金子(きんす)は、梓に言わせれば、
「泡(あぶく)銭(ぜに)」
 である。公威もそう認諾(にんだく)し、印税収入を惜し気も無く古本代に当てた。
 公威を何よりも歓喜させたのは、伊東静雄からの十一月二十二日付の書簡だった。伊東には序文を謝絶されたが、公威の伊東の詩才に対する敬仰(けいぎょう)は、聊かも揺るいでいない。伊東は書面で、
「花ざかりの森」
 が、
「思っていた以上の出来になった」
 と褒賞(ほうしょう)してくれた。公威はその文面を何度も読み返し、感涙を流した。
 文中伊東が、
「蓮田君がいたなら、きっと素晴らしい書評を送ったでしょう」
 と明記している段で公威は、
「花ざかりの森」
 出版の第一声を発し、
「三島由紀夫」
 というペンネームの考案者の一人でもある蓮田の、秀麗な面相を懐古した。

< 32 / 444 >

この作品をシェア

pagetop