剣と日輪
「お待ちになった?」
「全然」
「雲の切れ間が見える」
「うん。行く?」
「ええ」
 カップルは勢いよく曇天の町へ飛び出した。二台の自転車は、邑の中心街を突っ切って行った。二人は自転車を猛スピードでコントロールし、町外れのゴルフ場へと到った。
(あそこに木陰が在る)
 公威が自転車を放置し、木立の陰を目指すと、邦子も巵従した。白樺の樹木間を潜り抜け、男女は陰翳に埋もれた。全ては中天の内にある。
 接吻は長かった。公威には邦子の美貌がとろけんばかりになっているのが、認定できた。
(何という事だ)
 公威には快感も殉愛の精神も、義務感さえ沸いてこない。口付けを終えると、言い知れぬ畏怖の情念が頭を擡げた。
(矢張り、結婚などできない。逃げねばならない)
 愛の自失が確定したのである。公威は真っ青な気随(きずい)を漂白のマスクで隠伏(いんぷく)し、ただ一度の恋に終止符を打ったのだった。
 邦子は幻の恋愛に溺れ、公威は、
「邦子を愛すればこそ、逃げねばならぬ」
 という信念の鎧を着た。齟齬(そご)の恋情(れんじょう)は迷路へと二人を誘い、有得ないゴールを二人に絡ませた。
「もう一日滞在をお延ばしになって」
 という邦子の要求を拒否して、公威は予定日に軽井沢を去ろうとしていた。
 屋敷から出立する公威に、邦子は再会と土産を仄めかした。土産とはプロポーズに他ならない。公威は土産話をぼやかし、又会う日を確約しなかった。それでも、駅頭で公威を見送る邦子の両眼は生き生きとしていた。公威の裸眼は冷めて、残忍な気色さえあった。
(もう、会わない方がいい)
 手を振る邦子に、公威は真情をそっと送り、軽井沢を背にしたのだった。

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