闇夜の略奪者 The Best BondS-1
 「……黙れ。お前に何がわかるというのだ」
 実の父に突き立てた包丁の重みを、肉の軋みを、あの肉の赤さを。何人殺しても、決して消えることないあの感触を。
 誰も知らない。誰にもわからない。
 あの色を失っていく肌に感じた痛みも、掠れて弱っていくその声も。夢の奥まで追ってくる紅の色も。決して誰にもわからない。
 「うん。わかんないかもしれない」
 そういう少女の表情が同情の色を宿していたならば言える言葉もあったろう。
 だが体を少し離して覗きこんできたその顔は余りに痛々しくて、見ているこちらが大丈夫かと言いたくなるようなものであったからこそ言葉を失う。
 言うな、それ以上言うなと心が叫ぶ。このままでは何もかもが瓦解する。
 けれどそれでもこの腕を解くことは出来ない。突っぱねることが出来ない。
 それはきっと。それはやはり――温かいから。
 「でも、もういいよ」
 その声はとても穏やかだった。御仏の言葉かと思しきほどに。
 「あなたはもう充分、苦しんだ」
 心の綻びから全てが解けていきそうで、死神は必死でそれを繋ぎ止めようとした。
 だが一度入り込んできた風は身体の内側で渦を巻き、それはやがて無視出来得ぬ竜巻となり、彼が今まで信じてきた全てを揺さぶり覆そうとする。
 再び抱擁する少女の言葉が、温もりが、強さが。頑なに拒んできた闇の門をこじ開けて居場所を見い出す。
 「だから、もういいんだよ」
 その言葉に唇が震えた。
 「知らぬ、くせに……」
 少女の腕を掴む。引き離さなければと心が思う。
 望んできたのは赦されることではない。
 望んできたのは己の不幸とこの世界からの開放。
 その、筈だというのに。
 “もう、いいよ”
 この一言にみっともないほど揺さぶられてしまった。
 最も聞きたくなくて、最も欲していた言葉だと思い知らされる。
 「ようやく……開放の鍵と出逢えたというのに」
 この命に引導を渡してくれる強い存在に、ようやく出逢えたというのに。
 掴む手の爪が少女の柔肌に食い込んだ。それはすぐさま赤い線を残していく。少女は俄かに身を強張らせたが、その痛みから逃げることはしなかった。
 「何故、殺してくれぬのだ……」
 自身で死を選べないが故に他者にこの命を委ねた。殺してくれる存在をずっと探し求めてきた。


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