失われた物語 −時の鍵− 《前編》【小説】








「ごめん…大変…なんだね」

僕はこのところ自分の大変さしか

見えてなかったのかも知れない

「あ…うん…」

兄は今度は考えこんでいた

挙動が不審だ

きっとなにかあるんだ

「僕は知らない方がいいんだね」

その言葉を聞くと

兄はハッとした様子で僕を見た

「あ…俺が心配かっ?」

「う…ん」

僕はそう答えるしかなかった

「心配するな…俺が心配になる」

僕のこと気遣ってくれてるのが

わかった

僕に心配させたくないからだ

大学院でなにかあったのか?




もしかしたら兄は

僕やあの人のことの他に

大学院の問題まで一緒に抱えて

今まできたのだろうか?

ふとそんな憶測が生まれる

それを僕はいま兄に聞くべき?

僕に話さないってことは

話したくないのだろうか?

それとも話せないこと?





今度は僕が黙りこんでいた

「…こと言ったな」

「え?」

兄の言葉が半分だけ聞こえた

「いや…悪いこと言ったな…って」

「あ…いいよ…」

何が一番兄には負担になるだろう?

「兄貴は僕が心配するから言えない

んでしょ…だから…聞かない」

きっと聞いても僕では

役に立ちそうにない

「その代わり…兄貴の替わりにここ

の掃除する」

兄はフッと気の抜けた顔をした

少し悲しそうにも見えた

「ねぇ…どうすれば兄貴もっと楽に

なる?僕を支えてるのは辛い?」

兄はシンクの中をスポンジで

ゴシゴシ洗い始めた

「お前を支えていなければ…俺が

倒れる」

兄は袖口で額の汗をぬぐった

汗…涙?

兄になんて言ったらいいんだ

僕の何の気なしにしたはずの質問が

僕たちをこんな変な気持ちに

いや…違う

兄はまだ…傷が癒えてない…?

それでは僕は…?




黙っていたほうがいいんだ

兄を信じて




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