Fahrenheit -華氏-

初めて見る柏木さんの笑顔にドキっとした。


でもそれはあくまで想像の世界でしかなく…俺は未だに彼女のホンモノの笑顔を見たことがない。


煮え切らない消化不良と、昂揚した心が同居して



俺の寝起きは最悪だった。





―――

――


欠伸を噛み締めて、会社のエレベーターホールでエレベーターを待っていると、


「部長、おはようございます」


と聞き慣れた声がして、俺は恐る恐るという感じで振り返った。


ピンクの線が入った白いカシュクールシャツに、白いタイトスカート。


いつもと変わらない10㎝ほどのピンヒールを鳴らして、いつもどおりの表情で柏木さんが歩いてきた。


「お、おはよぅ!」


みっともなくも、声が裏返る。


「今日少し寝坊をしてしまいまして」


寝坊…と言ってもまだ8時前だ。


いつもどおりの柏木さん。無表情で淡々と語るその顔に、感情は読み取れなかった。


賭けのことに怒っている様子もなく、かといって一昨日の甘い余韻を漂わせているわけでもない。


「あ…俺も、寝坊」


俺はふいと柏木さんから顔を逸らした。


だめだ……


まともに顔を見れねぇ。


気恥ずかしさと、ほんのちょっとの恐怖心が俺の中をどろどろと満たす。


~♪


ふいに柏木さんの携帯が鳴った。


ドキリ!と心臓が波打つ。


“M”か?


だけど柏木さんは携帯を見ると、


「失礼します」と平然と言ってその場で通話ボタンを押した。



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