狂犬病予防業務日誌
 多くの飼い主は声のトーンを落として引き下がってくれるのだが、老人は新手の手法で攻めてきた。

「早く殺さないと大変なことになるぞ!」
 なんと強迫してきた。老人の首筋が赤く染まると見る見る顔まで伝染して赤い風船みたいになった。興奮の度合いが尋常じゃない。

 老人をこれ以上興奮させるとややこしい事態に発展する危険がある。

「お、落ち着いてください。ど、どういうことですか?」
 自分に落ち着きがなかった。申請書の記入が終ってから老人の態度が横柄になり、おれは臆病風に吹かれた。

「頼む!なんとかしてくれぇ~」
 怒っていたかと思うと今度はがっくりと床に膝をつき狼狽する老人。

「大丈夫ですか?」
 おれは老人の落胆ぶりに目を白黒させた。

「せっかく苦労して閉じ込めたのに……」
 老人が悲哀を主張してよろめきながら自力で立った。両手に握り拳を作り、斜に構え、眼光鋭くおれを睨む。“怒り”を表現するにはあまりにもわかりやすいポーズ。その幼稚さゆえ、なにをしてくるかわからない恐怖がおれを襲う。

「あんた段ボールを開けるのが怖いんだろ。責めはしないさ。触れないのは賢明だ」
 挑発する発言をした老人は、それきり段ボール箱を直視したまま動かなくなった。殺さないと大変なことになるぞと言っておきながら触れないのは賢明だと言う。この老人は相当もうろくしているようだ。

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