狂犬病予防業務日誌
 老人が警戒するほど怖さは感じない。見れば見るほど哀れに思えてくる。

 犬は全身を見せびらかすように180度回転した。向かって右側の毛がきれいに抜け落ち、赤い肌が露出されている。

 犬は毛がなくなるとこうなってるんだと漠然とした感想を持った。
「どうして毛がないんですか?」

 少しでも犬を刺激したくないという配慮なのか、老人は囁くようにおれの問いに答えた。
「ストレスのせいだ」
「ストレス?」
 聞き返したが老人は沈黙。

 少しわかったことがある。老人は言いたいことだけ言うと黙ってしまう。熱しやすく冷めやすい。天気のように気分がころころ変わる。根本的に我がままな性格に違いない。

 グルルル……。
 犬が唸った。頭は低く、背中を波のように隆起させて屈伸運動をする。瞳孔を拡張させて跳びかかる準備を整える。

 目が合ってしまった。ターゲットはおれらしい。

「よしよし」
 警戒心を解くために屈んでやさしく声をかけたが、犬は尻尾を振らず、逆に高らかに吠えて自己防衛反応を覚醒させる。

「そんなことしても無駄だ」
 老人が嫌悪感を滲ませながら言った。

 そして、おれの腕を掴む。
「逃げるぞ!」

 老人の強制的な指示を即座に受け入れられず、屈んだままの姿勢で躊躇していたおれの隙を狙い、犬が突進してきた。

 避けきれずに犬の頭がまともに顎を直撃しておれは後頭部を強かに床に打ちつけた。

“痛い”という神経が作動したのは一瞬だけ。

 視界が白濁し、意識が遠のき、意外と気分は悪くない。視界が正常に機能していないのに恐怖心は不思議とわいてこなかった。
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