狂犬病予防業務日誌
第二章 過去の闇
 お……おっ、お……い、おい。

 誰かの声がする。嗄れ声で聞き取りにくく、しつこいくらい呼びかけてきて、ついには脳へ浸透してくる。体の組織が根こそぎ毒されそうな汚い声だった。

 瞼をなんとか解放させ、相手を見る。目に映ったのは揺れ動く白い天井。

 上半身を起して頭を振ってみる。

 視界が捉えたのはうねって変形している年老いた男の顔だった。会って間もないのになぜかうんざりする顔だ。

「大丈夫か?ワシがわかるか?」
 老人が心配顔で尋ねてくる。

 申請書に記入してもらった名前が思い出せず、頷くだけにした。

「ここまで運ぶのに苦労したぞ」
 恩に着せる言い方をされ、すっかり見下されている。

 周りを見た。事務所内の隅で大の字に寝かされているおれがいた。両脚が伸びきっていることから老人が引きずってここまで運んできたらしい。

「犬は?」
 咄嗟に出た言葉だった。眼球を左右に走らせ、遅ればせながら警戒心を張る。

 老人は力なく首を横に振った。

「とにかく捕まえないと……」
 頭を強く打ったせいでふらついた。犬を野放しにしておくわけにはいかない。引き取った犬を逃がしてしまっては保健所としての面目は丸潰れ。しかもそれが危険な犬と知れたらおれが始末書を書くだけで済む話ではなくなる。

 
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