狂犬病予防業務日誌
「無理しないほうがいいんじゃないのか?」
 老人が遠慮気味に自重を促す。

「いや、責任問題になりますから」
「ワシが黙っていれば誰にもバレないだろ」
 と言った直後の老人の目から放射状に皺が伸びた。秘密を厳守できるとは到底思えない偽りの笑顔。

「襲い掛かってきたあと犬はどうしてました?どこにいったかくらい教えてください!」
 拒否されないためにきつめに問い詰めた。

 老人は真顔になる。顎だけを使って腹話術の人形みたいに下唇を上下運動させて喋った。残念ながら出てきた言葉は的外れ。
「早く逃げたほうがいい」

 老人に従うことなんかできない。犬の行方を白状しない理由が不明で不可解で不愉快だ。

(かまっていられるか!)

 犬を探すため正面玄関へ向かおうと一歩踏み出す。靴底に細かくて硬い塊の感覚が伝わってきた。歩くたびにジャリ……と音がする。床を見るとキラキラ光るものが帯状に広がり、裏口へと導いていた。

(ガラスだ)

 目の焦点を合わせる。靴の爪先でそれを擦って再び感触を確かめた。

(なにが割れたんだ?)
 不安と疑問を背負いながら裏口へ小走りで向かう。

 職員専用トイレ、ボイラー室、給湯室、休憩室、女子更衣室などを通り過ぎるとき、強烈な寒風が突き抜け、職員専用ロッカーの扉を乱暴に開けた。

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