狂犬病予防業務日誌
“寒い”という思考に取り付かれるとおれの足がとまった。すきま風にしては破壊力がありすぎる。風が吹き込んでくる先に目を凝らすとドアの窓ガラスに中型犬が優に入ってこれそうな穴が開いていた。血痕らしき赤い斑点も見つけた。

 外へ逃げたわけじゃないらしい。ガラスの破片と血痕が建物内にあるということは外から中へ入ってきたということになる。犬は正面玄関から外へ出て、裏口からガラスを突き破ってまた保健所へ入ってくる意味不明な行動を取ったとしか思えない。

 まず裏口付近の各部屋を探すのが妥当だろう。職員専用トイレ、ボイラー室、給湯室は空振りに終った。残りは休憩室と女子更衣室だけとなったが、ドアが僅かに開いている休憩室からブーンというモーター音が聞こえてきた。

 肝心なことを忘れていた。保健所では民間の警備会社に夜警を委託している。確か名前は竹山さん。警察を退職して60歳を超えているわりにはがっしりした体格で真面目そうな人。廊下ですれ違うとき、必ず先に挨拶をしてくれる。犬を取り押さえるにはこのうえない味方がいた。

 だが、休憩室は暗く、人の気配がない。

 トイレ?もしかしたらどこかを巡回中なのか?所内にいるはずだから騒ぎに気づいていないのはおかしい。

 電気を点けた。畳四帖半の休憩室には必要最低限の電化製品が揃えられている。テレビは調子が悪いらしく、前触れなく電源が切れることがあるので、警備員の竹山さんが総務課に修理をお願いしたのを見かけた記憶がある。

 テレビ画面が真っ暗なのはわかるとして、石油ストーブと電気コタツが点けっぱなし。飲みかけのコーヒーが入ったマグカップがコタツの上に置かれている。休憩室に漂う生活感が竹山さんのものなのは明らか。
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