ありのまま、愛すること。
この一連の、イエスとマザーに共通して流れる愛。

人に尽くすというその愛は、誰かに促されてしたことではなく、自分が本心からそうしたくて、すべてを捧げたことから生まれる愛だと言えるでしょう。


それは、誰かのせいでそうなったということとはまったく違うこと。

それはそのまま、母親の愛と等しいのではないでしょうか。

他者の手によって自己犠牲を強いられる人もいるでしょう。

しかしながら、イエスやマザーは、自らがそうしたいからするということにほかならないんです。

人間であれば、少しでも楽をしたいとか、いま自分が苦しいのであれば、自分は助かりたいとか、そういう思いを抱くのは当然のことです。

それでもなおかつ、彼・彼女は、まずは祈るわけです。

さらに厳しい環境に自分自身を追い込んでほしいとさえ、祈るわけなんです。

ただし、そういうときの「奉仕させてください」という心理は理解できるかもしれないのですが、イエスやマザーの場合は、「奉仕するに値する人間になりたい─」というもの。

自分がしたいか、そうでないかであって、彼や彼女の選択は、奉仕させていただく人間になりたいのだということ。

その凄まじさがあるんです。まさに凄まじいまでの祈りなのだと思います。
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